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【ディズニー、世界銀行】海外一流企業で通じる英語力と国際感覚を培うには

【ディズニー、世界銀行】海外一流企業で通じる英語力と国際感覚を培うには

こんにちは、現在ロサンゼルスでコンサルタント業をしている立入です。
バイヤーとしてキャリアをスタートさせた後、海外での営業や事業開発、日英ローカライゼーションを手がけたり、米ウォルト・ディズニーや世界銀行で働くなど、これまで多くの英語力を活かした仕事をしてきました。
そこで今回は、私の英語体験について少しお話したいと思います。
 

受験英語が一瞬にして脳内で崩れ落ちた


人生で初めて英語に触れたのは10歳の頃だったので、かれこれ勉強を始めてから30年以上の歳月が過ぎたことになる。当時、親友の母親が子供向け英会話を自宅の一室で教授しており、彼の息子を含めた仲良し4人組でレッスンを1年ほど受けた。
初めての感動は、床に落ちた鉛筆を探せず "I lost my pencil!" と言った時に先生が浮かべた満面の笑み。
今でもあの時のこと、英語が心の琴線に触れた時のことを思い出す。

初渡米までに10年の歳月があり、中学生の頃は当時の人気教材「家出のドリッピー」でネイティブの発音に耳を慣らした。高校では国際教養科だったので、ネイティブ講師と話す機会もあったし、当時最新鋭のLL (言語ラボ)教室でも学ぶこともできた。同級生の中では英語は得意な方だったと思う。
それでもいざ英語圏の地に入り込めば、そこはまったく別次元の異世界だった。初めてアメリカに来た時は19歳。それまで10年近く英語を学んではいたものの、やはり現地で触れる英語は全然違う。一筋縄ではいかないと感じた。
主な話し相手は旅先のユースホステルに滞在している旅仲間達で、欧州や豪州から来ている人たちがほとんど。今でもイギリス系英語は苦手だが、当時はそもそも英語自体がよく聞き取れなかったので、ポケット辞書片手に必死で慣れないアクセントに耳を傾けながら、会話にしがみついたものだ。
 

生きている英語は止まらない

工夫としては、とにかく毎日同じ質問をすることから始めてみた。相手の返答がわからなくても、適当に流して次の質問に進んでいく。
自信を持つのが何より大事だった(笑)
そして、そんな旅先で、何度もしどろもどろになり、受験英語が一瞬にして脳内で崩れ落ちた感覚を未だに忘れられない。一口に英語といっても、たくさんの「英語」があるんだと初めて気づかされた。受験英語は型にハマりすぎていた感がある。
それからは本場の「生きた英語」を学ぶのに血道を上げた。
生きている英語というのは止まらないもの。会話におけるネイティブと非ネイティブの最大の違いは「スピード」であるとよく言われ、私もそれに同感だ。
慣れていなければ、仮にそれが短文であってもネイティブの英語は速すぎて頭がついていかない。よって当面の英語の練習相手は同じ非ネイティブの人間同士ということになりがちである。
最初は頭の中で日本語⇔英語の変換を繰り返しもどかしい思いをするが、その内英語で話す時は英語で考えることができるようになり、夢の中では相手次第で英語が話せるようになる。ここまで来たら一段落。
 

国際的な現場で求めれること


振り返れば私にとって「生きた英語」を学ぶのに最も有益だった英語学習は、現地のコミュニティカレッジ(短大)の一般授業とESL(外国人向け英語クラス)、そして他の学生達との交流だった。
読み書きとリスニングとスピーキング、この四つの分野を全体的に強化していくことで英語の総合レベルは上がっていくが、大事なのは自分の中でどこに重点を置くか。それは具体的な英語を使う目標と直結してくる。
リスニングはスピーキングと、ライティングはリーディングと密接な繋がりがあり、バランスを取らないとうまく前進しない車の両輪のようなものだ。体感的には専門的な授業でしか学べない高レベルのライティングの習得が一番高いハードルで、その次が授賞式のような場でのパブリックスピーチだと感じる。
しかしこれらは、大半の非ネイティブには特別必要とされないスキルである。なぜならそれだけを生業にするような仕事には、大抵ネイティブがその職を得るからだ。

思いやりを持って英語を話す難しさ

一方、ウォルト・ディズニーや国際機関という一流の国際的現場で働いた際に感じた難易度の高いタスクがある。英語を使った仕事の現場、それも最前線で高確率で遭遇し、かなりハードルが高いと感じたそれは「多国籍の人種が入り混じった電話会議でのホスト(あるいはモデレーター)役」である。
ただ参加するだけなら、自分のパートだけを理解して対応すればよいのだが、進行役を務めるとなるとそうはいかない。先程述べた通り、英語はまさにグローバル言語であり、話し手によって十人十色のアクセントもある。表現方法も実に様々だ。
また、相手の発音が明らかに間違っていたり、意味や意図が分かりくい場合は、さすがに場を預かるものとして指摘して整理する必要があるが、国際語である英語を話す際には通常相手の英語力を疑問視したり、卑下したり、ましてやアクセントをけなしたりするような発言はもってのほか。
ネイティブのほうが神経質に言葉を選んで、思いやりをもって接している。このバランスを理解して適宜ハンドルするのは、特に日本人には極度に難しいことだと感じた。
 

英語は誰のものでもなく世界のもの


最近では外国人労働者も増えてきたが、歴史を通じて日本で話される日本語はそのほとんどがネイティブ話者のそれである。周囲が全員ネイティブなので、どうしても会話のペースは速くなり、そこに混じった少数の非ネイティブが話す言葉の滑舌が少し悪かったり、たどたどしかったり、辻褄が合わなければすぐ目立つ。
周りが求める水準がどうしても高くなってしまいがちで、みんなで引き上げるという感覚が培われている気はあまりしない。思いやりというよりは、(ここは日本なのだから)「話せて当たり前」という感じだ。日本語が堪能な外国人の方は本当に苦労して学ばれたのだと思う。
実際、日本の看護の現場でのそれに関する記事を最近目にした。その日の業務で担当した患者の様子を後任者に伝えるための「申し送り」作業が何より難しくてついていけず、挫折する外国人が多い、という内容だった。
医療の現場は大忙しなので、効率が重視されるのはわかるのだが、働き手が足りない環境で果たしてそれでよいのだろうか。一番肝心な看護のスキルはあるのだから、社会のほうが歩み寄らないといけないのではないか。
先程の電話会議の例は、これとはまったく逆である。そして英語を話すからにはこの感覚ではいけない。
英語は誰のものでもなく、世界のものだからだ。
 

英語を学ぶ上で必要な意識改革


このように、外国語を学ぶ際には母国語に根ざしたマインドセットが無意識の内に向上の弊害となっている場合がある。そのため文法や語彙に先駆けて、そのような「ブラインドスポット」となっている無意識下の盲点に注意を払い、その言語に合わせた意識変革をしていく必要がある。
そのことに気づかないことが、英語能力の向上を阻んでいるケースは多いのではないかというのが持論である。
例えば日本語は皆がネイティブレベルで話すからといって、英語を話す時はそうではなく、ネイティブレベルで話せないことは何ら恥ずかしいことではない。
逆にネイティブじゃない人たちにネイティブが合わせていく、という感覚を日本人が日本で体感するのは非常に難しい。
この意識変革は放置しておくと一生変わらないままだし、意識してもなかなか時間がかかることも多い。LとRの発音がいつまで経っても難しいのは日本語で区別しないから、というのもいい例である。
 

世界を愛そう。英語学習に必要なのは「人類愛」


これまで勉強し現場で英語を使って仕事をしてきた中で、英語学習者に一番伝えたいことは、「言語習得は一日にしてならず」ということだ。
長い歳月がかかり、下手すると死ぬまで続くプロセスだと理解しておいたほうがよい。そう考えた上で、まずは具体的にどういうレベルに到達したいのかをできるだけ細かくイメージして、ステップを踏んでいくべきだ。
旅先で不自由なくやり取りできる範囲、というのであればそう難しいことではないが、ネイティブと日常会話が問題なくできるレベル、というと一気に難易度が高くなる。
長く続くプロセスだからこそ、一番大事なのは継続のためのモチベーション。それがないと続かないのが言語学習というのが酷な現実である。周りに英語に堪能な方がいたら、ぜひどういう風に学んだのか、動機づけはなんだったのかを積極的に尋ねてもらいたい。
これは発音とかイディオムと違い、あるいは先程の意識変革の例と同じくネイティブからは学べないことだからである。
私は、そのモチベーションの根幹は「人類愛」なのではないかと思っている。
それは英語がどこかの国や人々に属しているのではなく、「世界」に属しているからだ。

世界を愛そう、世界で自分の力を試そう、そして世界の人の役に立ちたいと思えば、何としても言語のハードルを超えて通じたいという気持ちが活動の源泉となる。そして、自然と英語でのコミュニケーション力が上達していく。
そんな風にして私の英語は上達してきたと実感しているし、これからも英語を通じて、もっと多くの人の笑顔を見ていきたいと思う。
最初に英語を教わった先生の、あの笑顔が学習心の源泉として残っている限り。