濱名 栄作
(更新)
2014年、日本のとある水産商社が、クロアチアのマグロ養殖業社を買収した。
そのように日本企業が地中海の養殖事業を買収するのは初めてのことであり、前例がない。まさしく常識破りである。
その会社の名はジェイトレーディング。
社長の神戸治郎氏は日々世界中を飛び回りながら、日本の漁業・水産業が持つ可能性を追求している。コミュニケーション言語はもちろん英語だ。
学生時代は野球一筋に打ち込み、大学卒業後は攻めの事業展開で注目を集める神戸社長に、これまでの道のり、英語への挑戦、そして今後のビジョンについてお話を伺った。
インタビュアーは神戸社長と10年来の付き合いがあるDMM英会話代表の上澤貴生。
小学3年から野球を始めた神戸社長。
中学でシニアリーグに入り、高校には野球の特待生枠で入るなど、「プロ野球選手になる」ことを父と共に夢見ていたが、大学時代に惜しくもその道は断たれてしまう。
そして、一般企業に就職するのか、はたまた家業である水産業を継ぐのかの選択を迫られるも、答えはすぐに出なかった。
その後、アルバイトで貯めたお金でしばらく世界を放浪。
アジア各国をはじめカナダやハワイなど多くの地で、さまざまな出会いとアクティビティを体験しながら答えを模索する日々。
そして大学の卒業式を目前に控えたある日、ようやく決断に至る。
「ここまで贅沢させてもらったし、野球も思う存分やらせてもらった。だから、親孝行をしなきゃいけないなという部分で、やはり家業を継いで盛り立てるのがセオリー的に一番いいだろうなと思って、家業を継ぐ決断をしたんだよね。」
こうして神戸社長のビジネスマンとしての航海が始まった。
神戸氏の話を聞いていると、彼の人生観や思考の節々に親父さんが深く影響しているのを感じ取ることができる。
若き日の神戸社長に親父さんはどのように映っていたのだろうか、聞いてみた。
「結局誰よりも率先して仕事やるんだよね。小売の丁稚奉公から始めて苦労して生きてきた人だから。どんなに稼いだとしても無駄遣いも全くしないし、会社は黒字になってればいいって感覚だと思うから、余剰分は働いてる人みんなに分け前として与えたりしていた。今も普通に質素な生活をしてて、朝3時に起きて会社に入って夕方5時まで働いて家で飯食って野球見て寝る、みたいな繰り返しなのよ。他に趣味とかも持ってないし仕事一筋だから。」
中学を卒業後、家族を養うために魚屋に丁稚奉公として仕え、その後はデパ地下にある魚屋の店舗運営などを経て独立して魚屋を始めるなど、必死に働く父の姿を見てきた神戸氏。
当時の親父さんは地元の小売の世界で一躍スターだったようだ。
「小学校6年くらいのときには、魚屋を3店舗くらい持っていて、1号店は1階が店で2階が住まいみたいな形、そんな風に町の魚屋さんになっていったんだよね。産まれて記憶があるときから目の前で魚の商をやってるわけで、幼稚園や小学校にも魚屋から通っていた。魚のことを習ったことはないんだけど、目の前で魚が調理されたり、お客さんとのやりとりとか、もちろん現金が動いてるところも見てきてるわけだから、魚屋の商売の本当の根っこの部分を見てたわけだよね。」
こうして父親の商売を間近で見てきた神戸社長。
そんな幼き日に見た父の姿が、神戸氏のその後の人生に大きく影響していることは間違いない。
さらに父の偉大さについてこう語ってくれた。
「今は業界的にも厳しくて右肩上がりの楽な事業じゃないけれど、事業が続いてるっていうね、続けてるっていうことの凄さ、商いをやってる父の姿っていうのは、なんかもう、口では語れないくらいの重みがあるよね。」
大学を卒業し一旦は家業に入るも、その後は自ら会社を立ち上げ独自のビジネスを展開し続ける神戸社長。その経緯に迫ってみた。
「がむしゃらに働いてがむしゃらに大きくしていこうと思うんだけど、現実的にまだ自分が若すぎると、父親がつくって父親がリーダーである会社では、所詮それは自己満足にしか過ぎないし、結局浮いちゃうんだよね。」
「その時に『自分でどこまでできるかやってみよう』っていうベンチャーな部分があったのよ。当時はベンチャーが何なのかもよく分かってなかったし、何を事業としてやったらいいかも分からなかった。
そして何がいいだろうと思った時に“水産で貿易”でいいだろうと思いつくんだけど、それも結局よくわかってなかったから、貿易の本とか買ってかぶりついて読んだりとかしてね。」
「当時、電通って電気屋だと思ってたレベルだから(笑)。でも、貿易会社作って魚を輸出して儲けようって思った。」
かくして独自の道を歩みだした神戸社長は、日本で仕入れたサンマをアメリカに輸出するなどしていたが、取引をする中で、間に入ってる業者が大きく利益を上げている現実や、日本では廃棄されるような魚が現地のスーパーで高額で売られている現状を目にする。
そうして「それなら全部自分でやってみたい」と思い、2000年10月に株式会社ジェイトレーディングを立ち上げた。
ジェイトレーディングを創業するにあたって、運転資金と自らの生活費を稼ぐために、まずは築地に会社を作った。
魚の聖地である築地で有名になれば、全国的にも有名になり、その後の事業を進めていく上で大きなベネフィットになると考えたのだ。
「築地の残品を地方や色んなとこへ転売してお金を稼ぐってことをやったよね。これで最初の半期の決算くらいで1億6千万ぐらい作った。それが貿易会社としての原資になった。」
そのようにして築地で商売をしていくのと同時に、築地ブランドを使って仲介人との関係構築も進めていった。
なんとこの間は、アルバイトとしてお姉さんに電話番をやってもらっていた以外、全て神戸社長一人でやっていたと言うから驚きである。
貿易事業を本格的にスタートさせたジェイトレーディングだが、具体的にはどのような事業をしていたのだろうか。
「輸出に関してはアメリカにお客さんを作っていて、ロサンゼルスにハマチを輸出したり、NYにある会社に色んな水産物をつめて売ったりしていた。輸入に関しては、ノルウェー産サーモンのフィレに特化して、それを日本の回転寿司店にダイレクトに売るってことに決めた。」
「当時はサーモンってまだあんまりメジャーじゃなくてニッチだったし、市場の人が興味持ってるプロダクトじゃなかったからね。
これを結局、敵なしで全国の回転寿司店に鞄一つで売り歩くってことをやっていくと、意外にボリュームが動いていくようになるんだよね。」
またサーモン同様、オーストラリアマグロを輸入し全国の回転寿司店に売ることを開始。
これについては、当時の「がってん寿司」の社長であった故・大島氏が、マグロの買い付けを神戸社長に全て任せてくれるなど、大きなサポートがあったようだ。
「すごいチャンスをくれて僕自身もいっぱい勉強させてもらったし、会社にお金を作って人を雇っていくこともできた。とても感謝している。」
当時を振り返って、神戸氏はこのように語ってくれた。
そんな中、大きな話題となったのが、2014年に行われた地中海クロアチアでマグロ養殖を手がけるカリ・ツナ社の買収である。
この衝撃的な買収について、当時の神戸氏の心境はどのようなものだったのか、聞かずにはいられなかった。
非常に魅力的な事業ではあると感じていたものの、交渉が進んでいく中で、段階的につり上がっていく買収金額に、「採算が合わない」「きなくさい」「騙されているんじゃないか」と次第にネガティブな感情を抱いていったという神戸氏。それにも関わらず、買収へと踏み切らせたものは何だったのか。
「ジェイトレーディングはすごい儲かる仕組みを作ったんだよね。失敗もしたけど儲けてた。でも会社として次のステージに行こうって思った時に、ある程度小さくまとまった成功の中で終えて、ローカルルールのヒーローでいるよりも、田中将大投手がNYヤンキースに行ったように、メジャーでやってみたいなと思ったんだよね。そこには、自分が幼少期からずっと続けてきた野球が不完全燃焼だったから、もう一度『自分の可能性にかけてみたい』という思いもあって、そんなときに、カリ・ツナ社の買収はまたとないチャンスだと思った。
マグロ業界も大変でタフな時期に参戦して、その中で可能性をひとつずつ作っていって、現地にいるメンバーをヒーローにしていくっていうことをやり遂げたいという思いもあったかな。」
マーケット的にも厳しくリスクが高いときに、あえて飛び込んで行った神戸社長。
その影には、挫折を乗り越えて「自分の可能性にかけてみたい」という強い思いと、今後の漁業・水産業を盛り上げていきたいという崇高な志を感じとることができる。
続いてわれわれは、英語というツールを駆使して世界を飛び回る神戸社長が、どのようにしてその英語力を手に入れたのか、学生時代の放浪体験も交えて聞いてみた。
初めての英語の実地経験は、通っていた中学と姉妹提携するカナダ・リッチモンドにある学校への交換留学であった。
そのように若くして留学を経験したこともあってか、当時から外国に対するネガティブな感情はなかったという。
またお姉さんも同じくカナダに交換留学に行っており、その際のホームステイ先のファミリーに神戸少年と同い年の娘さんがいたそうだ。
そして彼女の写真を見て恋に落ちたという甘酸っぱい思い出も語ってくれた。
「彼女の写真を見て思いっきり恋に落ちた。それから文通を始めて、一回出したら毎日ポストを見るのが楽しみで。その子と会話を深めたいから、文法関係なく、必死で考えて英語を書くようになるし、今度は来た手紙を思いっきり知りたいから、辞書を片っ端から調べて読むようになった。」
そうして一時は英語を頑張るものの、学生時代は野球漬けの日々だったため、留学で知り合った友達が高校時代に日本に遊びに来たときも、満足に英語で会話をすることができず、悔しい思いをしたという。
しかし、片言英語を引き下げて出発した大学時代の世界放浪の旅、さらには仕事で世界を飛び回る中で、英語力に変化が起きる。
「片言英語なんだけど、旅をしている途中で急にヒアリング能力が上がるとか、いきなり言葉が出てきたりとか、そういう記憶はものすごいあるかな。なんちゃって英語から、世界中数え切れないくらいの国を歩き回って、そこでやらざるを得なくて身に付いていった。英語は生活の一部でしかないからね」
やはり言語は、直接聞いて直接使うことを通して身についていくことが、このエピソードからもよく分かる。
そして神戸氏は英語についてこう語ってくれた。
「英語ができるということは、すごいことじゃない。英語はひとつの道具であって、自分が活躍できるチャンスやフィールドの幅を確実に広げてくれるよね。世界のどこかで自分を探してる人は絶対にいて、自分を必要としてくれる場所が絶対にあるはず。」
「日本人だから日本だけが故郷ではなくて、自分にフィットする国がどこかにあると思うからさ。でもそこで言葉ができないとつらい。言葉ができないと居場所がないんだよね。そういう面でも英語は世界共通言語だから必要だよね。」
また、DMM英会話が提供するオンラインレッスンについてはこのように話してくれた。
「今の時代のニーズにあっててものすごくいいんじゃないかな。働いてたら英語を習うために教室に通うのは難しいし、他人に聞かれると恥ずかしいから喋れないとかあると思うけど、他人を気にせず自分だけの空間で英語が話せるシステムはのすごく素晴らしいと思います。」
インタビューの最終部分では、家業を継ぎながら自らの道を切り開いてきた神戸社長に、今後のビジョンについて伺った。
「獲った魚の鮮度を守る技術、しめる技術、そしてそれを迅速に食卓まで届ける日本の技術や仕組みって世界一だと思う。でも残念なことにそれが世界にはまだ浸透してなくて、海外の高級レストランでさえ本当に美味しい日本食が食べられるところは少ないんだよね。」
「日本の魚をむやみやたらに海外に輸出しようって啓蒙してる人もいるけど、それは実は間違ってて、モノではなく仕組みを海外に持っていくべき。
「だから、今日本でくすぶっている人たちこそ、本当に意を決して海外に出てきてもらったらいいんじゃないかなと思う。
モノを持っていくんじゃなくて、自分たちが持っているノウハウを海外に持って行って、現地に張り付いて、そして現地に何かを施して教育してあげてほしいと思うよね。」
日本食が世界的に注目を集める中、日本の産業が培ってきた技術や仕組みを世界に広めていくことで、これからの漁業・水産業を盛り上げていきたいと語ってくれた。
そして最後に、力強くこのようなメッセージを残してくれた。
「魚の業界を通した中で『神戸という人と一緒に働けた時間があってよかったな』と仲間たちが思ってくれるような生き方だけをやり抜きたいなって思う。」
漁業や水産業をはじめ多くの産業が今後も著しく変わっていくことであろう。
そうした中で、常識にとらわれずに、常に「何ができるのか」を考え、国内外を問わず積極的にチャレンジしていく精神が大切であることを、今回改めて認識した。
今後の神戸社長の活躍、そして日本の漁業・水産業の発展がますます楽しみだ。