Maksim
(更新)
20年前にニューヨークで起業し、今やニューヨークだけでなく6都市で12店舗のカラオケ店を経営するジョンマンUSA社 CEOの木田マイクさん。
今回は木田マイクさんに渡米した理由や、ニューヨークで起業した理由、また成功するまでに経験した失敗談や、失敗から学んだことをお伺いしました。
これから海外で起業したい方、そして海外で何かしら挑戦したいと思っている方は、必見ですよ!
ー なぜ海外に興味を持ったのでしょうか?
一番はじめに海外に興味を持ったのは、高校時代に出会った一枚のDMがキッカケでした。高校のときに富山の美容室を経営している実家に松田聖子さんの元ヘアースタイリストから講演会のDMが来たんですね。その方は男性なんですが、ロサンゼルスで美容を学んだ後に芸能界でヘアースタイリストの仕事をし、独立をしたみたいなことがDMに書いてあって。
当時は実家で母親がハサミを持って仕事をしてる姿をみていたこともあり、男性が美容院でハサミを持つなんて考えられなかったんです。あと、こんな田舎で家業を継ぐなんて絶対いやだったんですよね(笑)
だけど、このDMを見た時に「あっ、男性でも海外で美容を勉強して、芸能界とか華のある世界で活躍ができるんだな。それなら俺もいつかメイクアップアーティストとして世界を目指そう」なんて漠然と思ったんですよ。
ー へー!!メイクアップアーティストですか?
はい、その時は大学受験前ってこともあって、高校時代はずっと遊んでいて勉強が苦手だった自分は「メイクアップアーティストになる」って決めて。すぐ親に「俺メイクアップアーティストになろうと思う」って話をしたんです。
両親は、長男の自分が将来美容の世界に入らずとも家は継いで欲しいと思っていましたから、自分が両親と同じ美容の世界に行くことを知ったら喜ぶと思ったんですよ。だけど、返ってきた答えが「あんた美容の世界も昔と違って、学歴がないと食べていけないんだよ。あんた大学くらい行ってよ」って言われたんです。
ー 大学に行って欲しいと言っても、受験直前だったんですよね?
たしかその時は高校3年生の夏が始まる手前くらいでした。その時の成績は下から数えて10番内に入るくらいのレベルだったんです。先生からは、「お前のせいでクラスの平均点が下がる。早く学校辞めて美容師にでもなれ!」と言われるくらいですから、入れる大学なんてなかったです。
それでも親や実家の取引先の化粧品会社の所長さんから「大学で日本全国から集まる様々な価値観を持った人と混じりあって視野を拡げることは大事。どうしても美容師になりたければ、ダブルスクールで専門学校も通えばいい。」と言われたのもあって、そこから必死で勉強しました。
ちょうど高校3年生の夏休み前で、ちょうど部活動も引退し、彼女に振られたことも幸いして勉強に集中できました(笑)
そしたら今まで140番中130番とかだったのに、夏の終わりのテストでは140番中13番と桁が一つ減ったんです。その結果今までバカにしていた友達や先生までもが自分への扱いが180度変わったんですよ。
その時に「人は努力次第で他人からの評価を一晩で180度変えることができるんか」と思いましたね。それで結局は親のアドバイスもあり大学に行きながら、ダブルスクールで美容の勉強もしようと思って。「入ったら奇跡」と言われた同志社大学商学部に無事現役合格出来ました。
ー では、そこからはダブルスクールで勉強をしていたのですか?
いや、それが大学が楽しすぎてダブルスクールのことなんて忘れていました(笑)
さらにはバックパッカーをしてる友達から世界の話を聞かされて、普通にワクワクしちゃって。しかも彼が男らしくなったような気もして「海外ってそんな人を変えるほどすごいのか?」と思ったんです。
大学3年生の時から夏休みや春休みを使って、世界中を一人旅をすることにしました。
ヨーロッパ、モロッコ、インド、タイ、韓国など色々な国に行きましたが、全ての国の文化が違うんですよね。その時は単純に「文化の違いって面白いな!」と。あと海外で生活する時間が日本で感じる何倍も長い感覚があって。毎回たった一ヶ月余りの旅でしたが、充実度でいうと一生分ありました。あの経験が僕の価値観を全て変えました。
ー 大学卒業後は海外ではなく、リクルートに就職されたんですよね?
なんとか海外に行きたくて海外に工場を持ってそうなメーカー中心に就職活動したのですが、落とされまくって。
そんなある日、ゼミの友人に「お前みたいな変なやつは商社かリクルートがいい」と言われたので、とあるメーカーの面接後になんとなくリクルートに電話したら、「じゃあ今から遊びに来い」と言われ、そのままオフィスに伺いました。
待っていたのは、私より一つ上の若い人。まさかその人が人事担当で面接されているとは思わず、2時間好き勝手に話していました。
それから、その人事担当の方にリクルートの先輩を紹介され、ご飯をご馳走になりながら話しているうちに「この会社意外に面白い会社だな」と思うようになって、そのままリクルートでの就職が決まったんです。
ー すぐに会社を辞めて海外に飛び出しましたのはなぜでしょう?
リクルートは、日本の普通の会社と違い年功序列の会社ではなく、結構やりたいことを好きにやらせてもらえる会社ですし、営業成績も良かったので、そのままいても良かったのですが、一度若いうちに海外に行きたいという思いが抑えられなくなってきて。それで1年間営業トップになったことで、辞める決心をしました。
でも、辞めて海外に行くといっても何をしたらいいか分からず、色々考えた末、ビジネスの世界は経験したし、生まれ変わったら何になりたかったかと自問自答して、「アーティストの道がいいな。でも、絵も音楽も才能ないし。そういえば、バックパッカー時代に一眼レフで撮ってた写真結構うまく撮れてたなぁ。じゃあ、写真家になろう!」とほぼ思いつきで(笑)
写真留学で海外に行くことに決めたんです。2年間くらい海外で生活すれば英語も少しは上達するし、日本に帰っても英語が話せれば最低でも何とか生きては行けるだろう、と。
ー 決断力がすごいですね! なぜ海外に出る=ニューヨークだったのですか?
ニューヨークは世界の中心、文化の中心というイメージがあったからです。実際ニューヨークは世界中の色々な人種の人が集まって、その人種の混ざった小さな街の中で生活すれば自分の中の「日本人的な」固定概念が壊れると思っていました。実際にすぐ壊れましたね(笑)
ー 「日本人的な」価値観や固定概念を壊すことは大切だと思いますか?
そうですね。日本人は、本当に素晴らしい国民だと思います。しかし、一旦、自分の価値観や固定概念を壊してフラットに人や環境を受け入れないと自分の視野が広がらないし、物事や人の本質が見えなくなります。特にニューヨークで日本の常識のまま生きていくのは難しいと分かったんです。
1回しかない人生だからこそ、自分の殻を壊し、世界に溢れている色々な価値観の中で生きることを私は選択しました。その色々な価値観を見つける場所で最適なのが人類のるつぼとも言われているニューヨークだったんです。
私は、元々楽観的で、頭で考えるより、走りながら足で考えるタイプですから、ニューヨークは、難所が多くて走り甲斐のあるエキサイティングな自分が鍛えられる街ですね(笑)
ー ニューヨークへ行かれたのはいくつのときですか?
リクルートを辞めてからなんで25歳のときですね。当時は結婚もしていましたし、1歳半の子供が1人いました。
2年で帰国するつもりで渡米したのもあり、そこまで深くは考えていませんでした。あくまで英語と写真を学ぶつもりでニューヨークに渡米しましたからね。
あとニューヨークでの生活費に関してもリクルートで稼いだお金があったので、そのお金で2年くらいは大丈夫だと思ってました。だけど現実は厳しく、2年で英語をマスターをできるわけもなく、お金も半年で底をついてしまったんです。
お金がなくなるってことは学生なんてやってる場合じゃないんですよね。しかも、そのお金がないって大変な時期に2人目の子どもが奥さんのお腹にできてしまったんです。そうなったら、なんとかしてお金を稼ぐしか道はなかったんです。
ー 2人目のお子さんができたのですか……。すごいタイミングですね。
そうなんですよ、ビックリしましたね。とにかく出産費用も必要だし、アルバイトをしてお金を稼がなければと、日系情報誌の営業をはじめたんです。
そして、たまたま営業先で出会ったのがカラオケ店のオーナーさんで、「カラオケって儲かるよ」と。
当時は韓国人が経営しているカラオケ店はマンハッタン内にあったのですが、何処もぱっとしないお店ばかりで、「自分ならもっとうまくカラオケボックスを運営できるに違いない」と勘違いしてしまいました(笑)
そこで、きっとアメリカにもアメリカ人向けのカラオケボックスは沢山あるから、まず最初は日本人の駐在の方をターゲットにしたカラオケ店をやろうって思いなったんです。
ー だけど、お金は底をついていたんじゃないのですか?
なかったですね。なので立ち上げのお金は35万円だけでした(笑)
ただ、当時私たち家族はマンハッタンから1時間ほどの郊外にある日本人のお金持ちの方の持ち家に管理人のような形で住ませてもらってたんです。彼らは年に1回だけニューヨークにゴルフをしにくるので、その時のお世話と家の管理を条件に彼らの家の1部屋をタダで貸してもらっていて。その家の旦那さんとはよく話をしていたのですが、たまたまカラオケビジネスの話をしたら「木田君になら2000万までなら投資してあげるよ」って言われたんですね。
ー すごいですね! それでカラオケ店を作ったんですね。
会社はその時作ったんですが、実際カラオケ店は実際カラオケ店はオープンしなかったんです。
会社設立後、商売の先輩である母親に副社長に就任してこれから商売を始めることを報告しようと思って電話をしたんです。そしたら母から「あんた商売もしたことない人間が人様のお金でビジネスなんかやるな」と一言言われ、その時に「たしかにな……」と思っちゃって。
その後しっかり考えて、2000万円を投資してもらう話はお断りしました。だけど、お金はなかったんで母に「なら2000万貸してくれ!」っていったら「あんたはバカか!」って怒られましたね(笑)
だけど、お金がなければ何も始まらないと考えていた時に、当時リクルート時代の実績もあり、日本のカードローンで最高200万まで借りられるを思い出しました。すぐお金を借りて、送金し、そのお金を資金にして、新たに自分の会社を立ててビジネスを始めました(笑)
ー でも200万ではカラオケ店は作れないのではないのですか?
もちろん足りません。なので始めは、当時日本がレーザーディスクから通信カラオケに変わりつつある時代で、アメリカで日本人経営のカラオケ店にレーザーディスクは高く売れるのはリサーチで知ってたのもあって「これだ!」と思って、中古レーザーディスクの販売をやることにしたんです。
会社も新しく登記しました。社名であるジョンマンUSAは日本にいる時に占い師が「ジョン万次郎の本を読みなさい。あなたは何か彼に関係している」って言われたことと、ジョン万次郎とは逆に、日本の文化をアメリカに持っていく仕事をしよう! と思ってジョンマンUSA(現Karaoke Champ Inc)という社名をつけたんです。
ー おもしろいですね! では、ジョンマンUSAの事業内容としてはレーザーディスクのみ販売していたんですか?
当時はレーザーディスクも売れば、蛍光塗料を使ってブラックライトに反応して絵が浮き出る壁紙とかプリクラとか色々なものを売ってました。簡単に言うと日本のものはなんでも売る商社マンみたいな仕事をしていましたね。
そのときはお金もなかったので、夫婦で会社運営をしていました。
ー 始めた当初、ビジネスはどんな感じだったんですか?
会社設立して2週間くらいでレーザーディスクが飛ぶように売れ、いきなり200万くらい儲かってたんです。
「こんな美味しい仕事はないわー!」と思い、今度は大量に仕入れたのですが、次に入荷したレーザーディスクは1年くらい売り切るのに時間がかかりました(笑)
だけど売れない理由は明確で、1年でニューヨークにある数十件の日系カラオケ店のうち1件を除いて、全部うちのお客さんになっていたんです。英語もろくに話せないけど、この時に「やっぱり母数の多いアメリカ人をターゲットにした事業をしないと生き残れない」やはりアメリカ人相手に商売しなければと覚悟しました。
ー アメリカ人のマーケットは競合が沢山いて大変だったのでは?
それが、当時小さな競合が数社いただけでした。それより深刻だったのは、そもそもカラオケをやっているお店がほとんどなかったことです。ですから当時のタウンページには、カラオケというカテゴリーすらなく、私が広告出すからと電話会社にお願いして新しく作ってもらったほどです(笑)
当時のニューヨークですら、「Karaoke」といっても「空手」と勘違いされるほど、カラオケの認知度は低かったんです。
ー カラオケボックス事業は何がきっかけで始めたのでしょうか?
起業して2年目の時、レストランをやってた大学の先輩から「レストランの3階と4階のスペースが空いているので誰かカラオケでもやってくれる人探してくれない?」と相談されて、「それなら自分でやろう!」と思い、お客さんだったカラオケボックスのオーナーに声を掛けて始めました。
一番始めのカラオケ店「カラオケデュエット」はパートナーシップという形で、1997年2月2日2時22分に始めました。
ー なぜ「2」をそんなに大切にしたのでしょうか?
お店の名前が「カラオケデュエット」だからです。デュエットって2人じゃないですか。だからオープンするなら「2」がつく日がいいなって話し合って、2月2日2時22分になりました。
ー おもしろいですね(笑) その事業はうまくいったのですか?
最初にオープンした場所は日本人が多いエリアだったこともあり、お客様のほとんどが日本人で、その周りには競合がたくさんいました。
だけど、競合店に比べて部屋数を多くして「いつでも入れる」イメージを付けたこと、また英語の曲揃えと新曲の追加には特に力を入れました。
そして、アメリカ人もカラオケボックスを一度体験すれば必ず虜になると確信していましたので、いつの間にか日本人とアメリカ人の顧客比率が逆転した時には「してやったり!」と思いましたね(笑)
ー 日本とアメリカではカラオケの文化の違いはありましたか?
アメリカのカラオケは、歌が好きな人やそこそこ歌に自信のある人がバーで行われる“カラオケナイト”で人前で歌うのが定番スタイル。日本みたいにカラオケボックスというものは存在しないんです。
なので始めは歌う文化がないアメリカ人にカラオケの文化を伝えるのは大変でした。
アメリカと日本の文化の違いで面白いのが、日本人は会社で個性を押しつぶして協調しながらチーム力で仕事をする農耕型。プライベート時間は、仕事で個性を出せない鬱憤をはらすため、カラオケでは自分の持ち歌を順番に歌う独唱型。
一方アメリカ人は、会社で自分の担当、責任分野がしっかり分けられて、独りで仕事をする狩猟型。プライベートは、“自分は一人じゃない”誰かと繋がっていたいと思い、カラオケの楽しみ方は同じ曲をみんなで歌う合唱型。しかも、みんなで部屋の中で立って歌いながら踊っています。
ー それだけ色々違いがあるとビジネスをする上で失敗をした経験はないんですか?
たくさん失敗はしましたよ(笑)
たとえば、それまでカラオケボックス中心の展開をしていたものを2005年にカラオケボックス中心でなく、カラオケバー中心のお店を作ろうって話があったんですね。
3部屋のカラオケボックスと広いカラオケバーがくっついたような感じで、バーでは従来のアメリカのカラオケ文化らしく、バーカウンターにいるお客様の前でステージの上で歌を歌うスタイルで歌える空間を作り、個室で歌いたい人は数部屋奥に用意してあるから、そちらで歌ってくださいみたいな感じです。
ー それなのに失敗したんですか?
みんな歌いにくるんですけど、順番待ちになるんですよ。しかも、アメリカ人なんてお酒を1、2杯しか飲まないから、待ってる間に全部飲み干して、その後は水ばかり飲んで歌う順番を待つ人がほとんど。
そうなるとバーカウンターに人がたくさん入っていても、売り上げにならないんです。さらにはお客様も歌いたくて来てるのに歌えないことからクレームになったり、イライラするから店内の雰囲気が悪くなり、バーカウンターの奥にあるカラオケボックスにも人が入らないという負の連鎖が起こってしまって。
ー 日本ではカラオケにバーなんてないので、バーカウンターの必要性があまり感じれないんですが、アメリカでは必要なんですか?
よく聞かれるのですが、バーカウンターがなぜ必要かというと、外からみて盛り上がってる雰囲気を伝えることができるんです。
「あ、なんかみんな楽しそうにやってるな」ってことを伝えるためにもバーカウンターは必須ですね。あとは照明でお客様の出入りが変わることもびっくりしました。
ー 照明ですか?
日本人って目の色が黒じゃないですか? でもアメリカ人は目の色が青とか茶色とか黒に比べて色素が薄いんです。そうなると店内を日本のように蛍光灯の光で明るくすると目が痛いんですよね。
地元生まれのアメリカ人マネージャーに「この白い壁、全部黒に変えて、照明も白い光から赤っぽい暗めのものにした方がいいですよ」と言われたんです。半信半疑で言われた通りに変えたら、売上が3割も増えました。
ー なるほど。やはりアメリカでビジネスをするにはアメリカ人の文化を知ることが大切なんですね。ではビジネスをする上で英語はどれくらい必要なんでしょうか?
バーカウンター事業が失敗した時に気づいたのは、結局必要なのはコミュニケーション能力。コミュニケーションが取れなければ、彼らの文化を知ることができないですし、ビジネスをする上ではかなりのマイナスポイントです。
そしてコミュニケーションを取るためには英語が必要ですよね。
ー なぜ文化を知らないとマイナスポイントになるのでしょうか?
たとえば先程話した照明もそうですし、接客も日本とアメリカでは全然違います。
アメリカの飲食業では、チップでお金を稼ぎます。部屋に何度も「何か要件はありますか?」と聞きに来ないと、お客さんはサービスが悪いと判断してチップを置いてくれません。お客さんもチップを払うものだと承知しているので、お部屋に何度も来ることを期待しているんです。
このサービスは日本では逆で、何度もスタッフが部屋に来たらクレームになりますよね? このように国が違えば、同じ行動でも感じ方が違うんですよね。
ー 文化が分かれば、彼らの考え方が分かりますもんね。
そうなんですよね。現地の人の文化や考え方をちゃんと理解しないと、海外でビジネスを成功させることは難しいです。
「Made in Japanは世界でも人気だから売れる!」と勘違いして、日本の物をアメリカに持って来る人がいますが、アメリカ人は基本的に “アメリカが一番”だと思ってる。しかも、日本をもっと深く学び理解しようとするアメリカ人は、それほどいませんし、必要とも思っていない人がほとんどだと思います。なので日本人はもっとアメリカのことを学び、知るべきなんですよね。
ー おもしろい話ありがとうございました! では、最後にこれからニューヨークでビジネスをしたい方へメッセージを下さい!
先ほども述べた通り、「外国人は日本のことをよく知ってる」というのは前提にすべきではありませんが、それでも、日本人というだけで他国の人より評価が高く見られる、というのは実感としてあります。
これはすごい特権だと思うんですよね。だからこそ、日本人が持つ日本人らしい良さは忘れず、活かしてほしいです。
そして、自分自身のやる商売に思いを持ちましょう。毎日感謝し、反省することを忘れなければニューヨークでビジネスをすることはできますよ!