「詩はくだらないもの」詩人・谷川俊太郎が切り開いた詩の世界

谷川俊太郎さん

『二十億光年の孤独』を始めとして、詩『生きる』、スヌーピーの漫画『ピーナッツ』の翻訳、絵本『スイミー』の翻訳、アニメ『鉄腕アトム』の作詞など、私たちの身近に溢れる谷川俊太郎さんの活躍の足跡。

知っている詩人は? と聞いて、彼の名を挙げる人も多いだろう。実際に、現在も詩を生業としている人といえば、日本では谷川俊太郎さんだけではないだろうか。

そんな谷川さんにインタビューすることになった。

教科書に載っている美しくも小難しい「詩」。哲学者と芸術家を掛け合わせたような難解な会話をする詩人。そんなイメージを持ってインタビューに臨んだ僕らだったが、谷川さんのお話は、僕らの「詩」「詩人」のイメージを覆すものだった。

 

詩っていうのは「意味」はあまり重要じゃないんです

「僕らは、詩というものにあまり馴染みがありませんでした。教科書に載っている詩も、よく意味がわからなかった。加えて、大人になると詩に触れる機会が減り、詩はどんどん遠いものになってしまいました」

そう伝えると、谷川さんは優しい口調で「詩とはなにか」を伝えてくれた。

詩とはなにか

谷川:

詩には「答えはこれである」というようなものは無いんです。詩は散文とは違って、論理で組み立てられているわけではありません。いろんな意味が重層していて、捉え方によってはすごく「曖昧」なものだし、割り切れないものなんです。人によって受け取り方も違うものなんですよね。

つまり、詩の「意味」っていうのはあまり重要じゃないんです。詩を言葉の意味だけで読もうとすると、つまらないと思いますよ。

僕も、詩を作るときには「こういう意図で書こう」という考えは持っていません。強いて言えば、その辺の道端に咲いている草花みたいな詩を書きたいといつも思っています。

草花って、そこに存在しているだけですよね。でも、見ると美しかったり、可愛かったりして、見ていると感動することがある。それがどういう感動かって簡単には言葉にできないですよね。

詩も、そんな風になるのが理想なんです。言葉にはできないけどとてもよかった、と言われる詩を書きたい。でもなかなか、そうはならないですね……。どうしても言葉の「意味」が邪魔をしてしまうんです。

 

詩は「くだらないもの」なんですよ

詩には「意味」があるはずだとどこか頭の片隅で思ってきた僕たちは、少し驚いてしまう。僕らは学校で「この詩の意味を答えなさい」という授業を受けてきました。僕らはおずおずと、そう告げる。

詩は「くだらないもの」

谷川:

詩を学校で教えるのはとても難しいと思いますよ。

学校では、三択で「1,2,3 のうち、この詩の意味に近いのはどれでしょうか」みたいな教え方をするでしょう? でも、詩は3つの答えの中でどれが当てはまるかなんて、わかんないのが普通なんです。

詩に意味を求めるから、詩がつまらないものだと思われちゃう。それに、教科書に載っているとなにか「良いこと」が書いてあるんじゃないかと思われてしまって……。それで詩人は損しているんです。

そういえば昔、小学校で朗読会をやったことがあるんですが、「うんこ」とか「おなら」みたいな詩ばっかりを朗読したんですね。すると、最後に小学3年生の子が「質問です」って手を挙げて、「谷川さんはどうしてそんなにくだらない詩ばっかり書くんですか」って聞いてきたんです。これはすごく面白くて、さすがに咄嗟には答えられなかったですね。

「詩ってくだらないんだよ〜」と答えましたけど、この子のように「詩はなにか仰々しいことが書いてあるものだ」と思い込んでいる人は多いんですよね。

詩は、くだらないものなんですよ。詩からは、学ぶものはほとんど無いんです。好きなものは好きっていうのと同じで、要はその詩を好きになればいいんですよ。わからなかったら、いろいろ考えたり、人に聞いたりすればいい。

詩は音楽に近いものです。音楽は、言葉がなくても「この曲が好き」と、なんだか心を揺さぶられたりするでしょう。そんな風に詩も、楽しんで、味わってもらえたらいいですね。

 

言葉には意味だけではなく、音があるし、色もある

詩にはなにか重要な意味があって、それを読み取るべきものだ……そう考えていた僕らの前提が覆る。詩の持つ音楽性について、谷川さんは続けてこう語る。

音があるし、色もある

谷川:

もともと、詩は「声」だったわけです。文字がない時代から、詩はあったわけですから。誰かが、繰り返し詩を読む。すると子どもたちは、その声や音で詩を覚えていったわけですよね。言葉が持っている音楽性みたいなものがあったと思うんです。

今は活字で見る機会が増えて、つい言葉の持っている音を忘れがちなんですが、実際には、言葉には意味だけではなく、音があるし、色もあるし、なにかイメージもあるはずなんです。

僕も、「音」が楽しい詩を何編も作りました。昔、「かっぱ」という詩を書いたことがあるんです。「かっぱ かっぱらった かっぱ らっぱ かっぱらった……」と続くんですが、あれは日本だけでなく海外でも楽しんでもらえるんですよ。

海外で朗読する場合には、「かっぱかっぱらった」の内容をなんとなく拙い英語で説明してから読むんです。そうすると、日本語の意味はわからないはずなのに、結構うけるんですよね。

海外で朗読

一度、中国語の翻訳者の方が「かっぱかっぱらった」を訳す! と決めて、3年かけて翻訳してくれたんです。そして彼と一緒に、僕が日本語で読んで、彼が中国語で読みました。そうしたら、やっぱり日本語で読むほうがうけていましたね。
中国語の方はね、意味はちゃんと通じてるんだけど……。でもあの、「かっぱかっぱらった」みたいな楽しいリズムにはならないから。

意味が正しく通じることよりも、音を楽しんでもらえるほうがいい詩もあるんです。詩を読むときには、自分で声に出して読んで、その音も一緒に楽しんで欲しいです。

 

詩人のイメージを壊したかった

ここまでお話を伺っていて、とてもわかりやすい言葉で詩を語ってくれる谷川さんに、僕らはホッとする。詩人といえば、芸術的で難解な人をどうしても想像してしまうからだ。

詩人のイメージを壊したかった

谷川:

詩人とは、なにか話をしようとしても難しくて、ちょっと変わったことをやろうとする人が多いイメージがあるでしょう。僕は最初からそういうイメージを壊したくてやってきました。

昔は、詩人というとなんとなく「落ちこぼれ的」な印象があったんです。やっぱりメインの社会から離れた人間というか、社会にうまくフィットしないような人たちという印象が、僕の若い頃からありました。

詩の言葉は契約や法律の言葉とは次元の違うところにあるから、詩人はやはり現実的な世間の中では生き難いことが多い。

僕はそれに反発して、詩を普通の暮らしから遊離させたくないと思ったから、行分けの詩だけじゃなくラジオドラマを書いたり、子どものうたの作詞をしたり、絵本の翻訳・創作をしたりなど、とにかくオールラウンドにいろいろなことをやってきました。だからある意味で、俗世間とちゃんと交わってこられたところがあると思います。

と言っても、詩をなにか特別な場所に祭り上げておきたいと考える詩人たちもいます。たとえば、1950年代くらいでは、「詩は同人雑誌で発表するものであって、商業新聞なんかでは発表しちゃいけない」なんていう風潮があったんですよね。そんな中、新聞に詩を書いたら、やっぱり「新聞に詩を書くなんて、何事だ!」と言われたこともありました。

ひとつ良かったことがあるとすると、僕は生まれつき、楽天的だったんです。だから、あんまり人のことは気になりませんでした。一人っ子だからか、一人でいるのが自由で好きでしたし。批判されてもあんまり落ち込むってことはありませんでした。

 

社会の中で詩を成り立たせようとすること

詩の世界での先駆者であった谷川さん。荒波に揉まれながらも、困難を困難と捉えずに詩と向き合ってきたという。詩というものを身近に感じ始めた僕たちは、こう質問を続ける。

「僕らも詩人になれますか?」

僕らも詩人になれますか

谷川:

誰にでも詩人の素質はあるはずですよ。もちろん、その人にそういうものを感じたり、書いたりしたいという欲求があるかという問題はあります。一生を金儲けに捧げる人に、詩を感受する欲求はないかもしれませんしね。

でも、やっぱり今のような社会の中で詩を成り立たせようとするのは難しいと思います。ある時期から、詩の才能を持った人たちがコピーの世界に流れていきました。他にも歌の作詞や演劇など、その他の文章の仕事に流れていき、詩そのものも拡散していきました。

でも、僕はその風潮を決して悪いとは思っていません。別に詩的な気持ちや感情を「詩」という形だけじゃなくても、ファッションで満足させようが、コミックスで満足させようが、問題ないと思っているんです。行分けの詩は、小商い、スモールビジネスになっていいと思うんです。

 

常に読者を意識して書いています

谷川さんの現実的な「詩」の捉え方に、僕らは少し驚く。時代を鋭く見つめながら、詩を紡ぎ続けた「職人」のような姿がカッコよく、僕らは詩の「書き方」さえ気になってしまう。

常に読者を意識して

谷川:

詩を書く時は、どこで書こうと常に読者っていうものを意識して書いていますね。読んでくれる人、あるいは声に出すときは聞いてくれる人のことを考えながら、書いたり声に出したりしていますね。

でも書く時に、特定の誰かを意識することはほとんどありません。「自分の中に存在している他者」とフィードバックしながら書いていくんです。

「自分の中の他者」という言い方をしましたが、言語そのものにそういう性質があると僕は思っていて。言葉というのは、他人のものなんです。生まれたばかりのときは言葉を持たないのですが、そこから徐々にお母さんや大人たちの言葉が自分の中に入ってくる。その他人の言葉を真似しながら、言葉を覚えていくわけですよね。

つまり最初から、言葉は他人のものなんです。だから常に、他人と分かち合わなきゃいけない。共有できる言葉を自分の内部に探していかなくてはなりません。

いくら頑張って自己表現しているつもりでも、これは自分だけの言葉だってことはないんですよね。結局、言葉を扱う以上、他人の存在が必要不可欠なんです。

 

ニコニコ動画でもなんでも、面白いものは全部やりたい

自己表現ではない「詩」。他人と共有する「言葉」。
詩に対するイメージがぐわりと揺さぶられる。世の中で詩を成り立たせたいと思った、詩の先駆者の挑戦を聞く。

面白いものは全部やりたい

谷川:

やっぱり古い人間だから、詩集は本で読んで欲しいっていう思いはいつでもあります。でも、それを壊したいという気持ちもあるんです。
それで、顕微鏡で読む詩とか、電光掲示板で読む詩、インターネットを使った詩など、周りから誘われたら何でも試してきましたね。

僕は、人への伝え方という点に関しては、面白がってなんでもやりたい人なんです。全部一度はやってみたいという感じで、とにかく挑戦してきました。

あとは、朗読 “ライブ” にもずっと関心があって。紙の上の活字という死んだ場所ではなく、声という生きている場で交流をするのは、すごく面白いんです。朗読会だけじゃなく、ニコニコ動画でライブ配信をしたこともありましたね。

あれはすごく面白かったですね。リアルタイムで流れるコメントが多すぎて、とても全て読んでいる余裕はなかったんだけど。でも、楽しかったです。

生で朗読して人に耳で聞いてもらうのは、活字で黙読してもらうのとは随分違います。本や雑誌で読んでもらっても、そんなに反応が返ってくるものではないですからね。

昔、認知症の老人ホームで朗読したことがあるんですが、前の方に座っている年寄りたちが「もうやめろ! 帰れ!」なんて叫ぶんですよ。生き生きしていてすごく面白かった。笑ってくれたり拍手されたりするのが朗読の良さですね。

ニコニコ動画は新しい体験でした。反応が文字なので読まなきゃならないし、またリアルの世界とは少し違った趣でしたが、でもなんらかのレスポンスがあることはすごく嬉しいんですよ。詩を書いている人は、レスポンスに憧れているというか、飢えているところがあると思いますね。

レスポンスがあることはすごく嬉しい

Twitterをやっている詩人もいますよ。Twitterによる連詩などは、一種のスピード感がありますよね。

僕はTwitterでの連詩はやらないけれど、メールや、その前はファックスで詩のやりとりをしたことはあります。媒体によって全然スピードが違ってくるんですよね。それが良くも悪くも面白いっていう感じでした。Twitterは僕にとっては字数が多過ぎるし(笑)、拡散されて読者の顔が見えなくなる感じがちょっと気がかりでもうやりませんけど……。

これから詩を書いて、多くの人に読んで欲しいっていう人たちにとっては、TwitterもFacebookも使い方によっては良いツールになると思います。インターネットだけで全てを完結させるのが必ずしも良いとも思わないけれど、足掛かりとしてはいいかもしれません。

 

詩人 谷川俊太郎の今後の挑戦

次々に紡ぎ出される革新的な思想と言葉。僕らが思っていたよりもずっと詩に対して現実的で、でも思っていたよりもずっと読み手に対する「愛」がある。そんな谷川さんに、僕らは最後の質問をした。

「今後の目標はありますか?」

今後の目標

谷川:

僕はあんまり前もって計画して仕事することはなくて……。基本的に、受注生産なんですよ。注文があれば書く、というスタイルで仕事をやってきました。

だから、「目標」というものはあまりないんですよね。編集者からこういうもの書かないかって言われて、それを目標にしていたくらいで。基本的には、“目前の締め切りを守る” だけ! それだけでこれまで運良く「詩人」として生きてこられました。

でも強いて言えば……、今までずっとやってきたことの続きですが、自分で納得のいく詩を書き続けていきたいです。それと同時に、これからもできるだけ今までにやったことのない詩を書いていきたいですね。