セレン@英語キュレーター™
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端正なルックスにスラリと長い手足、
おまけに英語までペラペラときたらもう向かうところ敵なし。
小さい頃から女子にもモテモテの苦労知らず。
失礼ながらそれがお会いする前のユージさんの印象でした。
ところがどうして、お話を伺ううちに出てくる出てくる
幼い頃からの苦労や辛かった体験の数々のエピソード。
言葉での苦労も数知れず…。
英語の失敗エピソードからユージさん流英語習得術まで、
笑われ傷つき成長してきたユージさんのリアルストーリー、
ぜひご堪能ください!
きっと読み終わった後に勇気がふつふつと湧いてくる、
そんなインタビューだと思います。
セレン:
今日はどうも、よろしくお願いします。
かなりがっつり深いところまで伺おうと思っていますので(笑)
ユージ:
はい(笑)
よろしくお願いします。
セレン:
はじめに生まれた時の環境についてなのですが。
ユージ:
もともとはアメリカで生まれて5歳までアメリカのフロリダのマイアミにいました。
父親がアメリカ人、母親が日本人なんです。
5歳の時、両親が離婚することになって、母親についてくる形で日本に来ました。
日本に来てからは小学校3年生までアメリカンスクールに通っていました。
セレン:
ということはユージさんにとっての母語は英語だったわけですね、もともとは。
ユージ:
はい、日本でもアメリカンスクールでは英語しか知らなかったので、
8歳くらいまでは日本語は一切喋れなかったです。
セレン:
アメリカいたときの暮らしはどんな感じだったんでしょうか?
ひいおじいさまがドミニカの大統領だったというのは有名なお話ですが。
ユージ:
はい、そうなんですよ。
ひいおじいちゃんがドミニカの大統領で、おじいちゃんがドミニカ大使館の大使で
父親が俳優だったんです。
まあでも父親の俳優ってのは大したことなくて、大きく影響してたのは
ひいおじいちゃんの関係ですね。
今思い返せばずいぶん裕福な生活だったと思います。
自分で働いて稼ぐようになってから、いかに
あのレベルの暮らしをするのが大変かってわかりますね。
でもそんな暮らしもそれまでで、5歳の時、日本に来るまでの話なので。
そこからは一転した暮らしが日本で待っていました。
セレン:
ご自身の体験としてその生活の変化は子供ながらに大きかったですか?
ユージ:
そうですね。子供だったので全てを理解していなかった部分もあるんですが、
記憶にはうっすら残っていて、その落差は少し辛かったですね。
急に貧乏になったわけで。
孤独感と寂しさはすごかったですね。
家族も、お金もなくなってしまった。
小学校3年生の時に日本の小学校に転校するんですが、
そこからは言葉の問題も出てくるのでさらにきつかった。
セレン:
つまり今まで英語だけで生活してきたのに、急に
日本語を話さないといけない環境になったということですよね。
ユージ
はい、日本の学校の中で英語がしゃべれるというのは
逆にコンプレックスだったんです。からかいの対象になってしまって。
なるべく英語はみんなの前ではしゃべらないでおこうって思っちゃって、その時は。
ちょっともったいなかったなあ…。
でも日本の小学校では
「あ、外国人だ」とか指差されたり。
あとは僕本名がトーマス・ユージ・ゴードンなんですが
名前を黒板に書かれるんですよね、引越してきた時なんかに。
そうすると名前がもうほとんど機関車の名前なので…(笑)
からかわれるんですよ!
セレン:
あー、確かに(笑)
しかもトーマスとゴードン、
二つまとめて来ちゃったみたいな(笑)
ユージ:
そうなんですよ!
奇跡ですよね(笑)
しかも、ミドルネームのユージを外して
書かれたりした日にゃ、トーマス・ゴードンですからね。
「え、あいつ機関車じゃん!」
みたいな(笑)
ざわざわしちゃって、教室(笑)
しかも電車通学みたいな(笑)
機関車が電車乗ってるとか言われて。
セレン:
まあ、でも今だから笑える話ですよね…。
ユージ:
そうそう、今でこそ笑える。
むちゃくちゃネタになりますから(笑)
でも、小学校3年生でその余裕はなくて。
しかもその時は英語しか話せないので
かわかわれても何も言い返せないんです。
それでイライラしちゃって手が出ちゃうんです、子供だから。
でも身体が小さかったんで勝てない、
返り討ちにあっちゃうんです。
で結局泣いて家に帰る。
そんな毎日でした。
セレン:
それは小さな子供には辛い体験ですよね。
しばらくそういう日々は続いたのでしょうか?
ユージ:
でも徐々に僕も日本語はうまくなってきて。
英語は封印しようとしていたんです。
そうするとコミュニケーションも取れるようになるんで
少しづつそういう状況はよくなってはいきましたね。
セレン:
その当時、日本語はどのように身につけられたか覚えていますか?
ユージ:
アンパンマンなんです。
「アンパンマン、新しい顔よ!」とか
「アンパーンチ」とか(笑)
でも、わかりやすいんです。
絵と一緒なので。
あとはドラえもんとか。
セレン:
逆に日本人で英語を学ぶ人には僕なんか
セサミストリートとかおさるのジョージとか
むちゃくちゃオススメなんですが、同じポイントかも
しれませんね。
ユージ:
ああ、いいと思いますよ!
自分の興味のあるものが絶対いいですよね。
僕の場合は子供だったからアニメなだけで
大人だったら映画とかドラマとかいいですよね、絶対。
あとはやっぱり日本に住んでたわけだから
毎日使うわけで。
自然と身につけられた部分もありますね。
セレン:
感覚的に日本語が快適になってきたのってどのくらいの期間だったか
とか覚えてたりしますか?
ユージ:
人が言ってる事がだいたいわかるようになったのは
早かったのは覚えてますね。
でも、思ったことや言いたいことをしっかり伝えられる
ようになるまでは少しかかった気がしますね。
でも期間でいうと1年くらいかなあ。
頭の中の英語を日本語に置き換えられるようになったのは
小学校4年生くらいでしたね。
セレン:
お話を聞いていると子供ながらにたくさんの孤独感を
感じられていたように思います。
当時のユージさんの一番の支えになっていたものはなんだったんでしょうか?
ユージ:
うーん。(しばらく考え込む)
支えかあ、なかったなあ。
家政婦のおばちゃんがいたんですよ。
川村さんっていう。
母親が仕事でいない間は川村さんが来るんですよ。
だから一番思い出に残ってるのは川村さんといた時かもしれません。
母親のご飯より、川村さんのご飯のほうが覚えてますね。
川村さんは結構年配の方だったんです。
僕にとっておばあちゃんみたいな人でした。
たくさん救われましたね。
セレン:
日本に来て、日本の小学校に来る前に行かれていた
アメリカンスクールはどういう雰囲気だったのでしょうか?
ユージ:
アメリカンスクールはもう多国籍で、肌の色も関係ないし、
髪の色も多様で、それが当たり前だと思っていました。
日本の小学校に入った時は仲間はずれにされてしまうので
早く日本人になりたい!って思ってましたけど、
アメリカンスクールにいたときはそんなこと考えたこともなかった。
みんな違って当たり前、の世界でしたから。
毎日楽しくて。
インドの友達がいて、英語が下手でしたね今思えば。
でもだからって誰も気にしないし。
日本人の子もいましたよ、英語はもっと下手でした。
でも、それでいいんですよ。
みんな相手に足りないものをわかっていて
それを責めたりするということが一切なかったんです。
誰にとっても心地よい環境だったと思います。
ところが日本の学校に来たら
みんな目の色も髪の色も同じなわけです。
僕だけが違う。
宇宙人がきた、みたいになっちゃって。
居場所がねーな、って思っちゃって。
セレン:
通われてたアメリカンスクールは
多様性、ダイバーシティーを容認する
理想的な環境だったんですね。
ユージ:
ほんとにそうですね。
横田基地の子供たちも来ていて、
スクールバスもいわゆるあの黄色いやつですよ。
全て英語、の世界ですからね。
アメリカを凝縮したリアルアメリカって感じでしたね。
セレン:
その後日本の学校出て大きくなった後、
渡米されますよね、そのお話を伺ってもいいでしょうか?
ユージ:
大きくなってから結構なバイク事故を起こしちゃうんです。
当時やんちゃしてたので。
1年くらい入院することになるんです。
でその間暇なんで、なんで今までこんなに
無駄な時間を過ごしたんだろうってそこで考えちゃって。
でも退院したらまたやんちゃな生活に戻っちゃうんです。
頭の片隅では、このままじゃいけないなあ、ってのがずっとあって。
それが19歳の時ですね。
セレン:
その時、ご自身で渡米を決意されるんですか?
ユージ:
いえ、違うんです。
実は、変なおばさんがいて。
セレン:
変なおばさんですか
そこを詳しくお願いします(笑)
ユージ:
変なおばさんってのは、なんか突然出てきて(笑)
ざっくり言うとその時、母親とは離れて暮らしていたんですが
母親が心配して送ってきた刺客だったんですよ。
母親は自分から離れたらもっとまともな暮らしを
してくれると思ってたんだと思います。
それなのに僕は一向に変わらず、
家には改造したバイクが毎晩集まってくるような生活で。
で、そのおばさんが突然家に来て、
最近どう?みたいなところから始まって
しばらく数日おきに家に訪ねて来るようになって。
で、そのおばさんが
「ユージくん将来やりたいことあるの?
もしまだ決まってないならアメリカに行ってみたらどうかなあ。
もうチケットもあるんだよねえ。」
って。
チケットを渡されたんです、突然。
騙されたと思って行ってきなさいって。
好きなだけ遊んでくればいいじゃない、って言われて。
それで渡米することになったんです。
それが人生の転機でしたね。
ほんとはすぐ帰ってこようと思ったんですが
いろんな奇跡がたくさん起きてすぐには帰れなくなっちゃって、
アメリカから。
もともと一人旅でもするかと思ってたら
アメリカに着いたら空港に父親がいたんです。
5歳のとき以来会ってないんでこっちはわからないんですが
向こうは
「ヘイ、ユージ!」
って2メートルの巨体でいきなりハグされて。
お父さんマイクって言うんですけど
"Are you Mike?"
って聞いたら Yes!って言ってて。
ああ、お父さんなんだって。
で、そっから暮らすことになって…。
セレン
いきなりすごい急展開ですね。
お話聞く限り、全てお母さんとお父さんが協力して
考えたユージさんの更正プロジェクトだったんですよね、きっと。
ユージ
そうなんですよ。
黒幕は母親ですよ。
全てお膳立てされてたんですよね。
セレン:
いきなりアメリカに行って英語はどうだったんでしょうか?
しばらく封印されてたんですよね?
ユージ:
僕としては出てこないかなあと思ってたんですが、
以外と3ヶ月くらいでなんとか勘は取り戻せましたね。
セレン:
その3ヶ月の間は大変でしたか?
お父さんは日本語は話せないわけですよね?
ユージ:
はい、英語だけですね。
はじめは言いたいことが言えずに苦労しましたね。
聞き取りはなんとかなりました。
なんとかって言っても生活の中だと
"Are you hungry?"
なんて聞かれるくらいはわかるんですよね。
基本的な会話はそこまで困ることはなかったんですよね。
"Yes, I’m hungry."
って言えればいいわけで。
お腹すいてたら(笑)
ただお父さんが知らない人と英語で話してる時なんかは
ああ、笑ってる、とかそのくらいしかわかりませんでしたね。
テレビも全部英語なのではじめはわかりませんでしたが、
慣れるのも早かったですね、やはり住んじゃうと。
セレン:
そこで次は英語漬けの生活になったわけですね。
ユージ:
物事に対するマインドとして英語で考えるように
なるんですよね。
だって、英語でしかしゃべれる人がいないんです、そこには。
何か言いたいことがあったら英語で言わないといけない。
自分から英語で伝える以外逃げ道もなかったから。
アウェイな環境ですよね。
セレン:
そういう意味ではユージさんは人生の中で
それまで2回も大きなアウェイ体験をされているんですね。
一度は英語から日本語の環境へ。
そしてその後日本語から英語という環境へ。
その強烈な振れ幅の揺り戻しは大変ではなかったですか?
ユージ:
そうですね、日本人になりたいと日々願いながら
暮らし続け、ようやくなれたかな(慣れたかなの意も?)って
時に今度はアメリカ、ですからね。
ただアメリカのいいところは違う国籍の人も受け入れる
気持ちがみんな強いんですよね。
僕のこの見た目でチャイニーズなんて言われましたからね(笑)
向こうからするとそうなんでしょうね。
セレン:
それでもアメリカでの生活で英語を使うことに、苦労はあったのではないかと思います。
何か大変なことなどはありましたか?
ユージ:
3ヶ月くらいすると徐々に慣れてきて、少しづつ言いたいことが
言えるようになるんですよ。
そっからが実は大変で。
変に言えるようになってくるんで、言えないことに対する
フラストレーションもすごくなってくるんです。
僕は勉強が大っ嫌いなんで、全部体当たりだったんですが
時間だけはあったんでお父さんとよくゴルフなんか行ってました。
そうするとお父さんの友達とかも集まってきて
質問攻めにあうんですよね。
そうすると答えないといけない。
その環境は随分鍛えられましたね。
セレン:
そういう英語が徐々に成長していく環境の中で
ユージさんが一番気をつけていたこと、などありますか?
これだけはしない、というルールのような。
ユージ:
間違えを気にしない、ですかね。
英語でお父さんに話しかけても時々
"What?"
みたいな顔をされたりするんですよね。
通じてない。
でも、そこで諦めてしまわずなんとか伝えようとするんです。
そうすると、向こうからこれってこういうことか?
みたいに別の言い方をしてくれるんです。
そうやって少しづつ学んでいきましたね。
今のフレーズ使えるな、みたいな。
で、その環境が1年くらい続いて。
その頃には夢も英語で見たましたしね。
たまに国際電話で日本の友達から電話かかってくると
「あれ”Next week (来週)"って日本語でなんだっけ?」
みたいなこともありましたね。
セレン:
なるほど、日本語の語彙が出なくなっちゃうんですね。
で、その後また日本に帰ってくると。
その時はまた日本語に苦労したり、というのはなかったですか?
ユージ:
まあ、日本語は慣れた期間が長かったので、
そういうたまに語彙が出ないことはありましたが、
会話自体は問題なかったですね。
セレン:
ちなみに、今は英語と日本語のバランスってどんな感じですか?
ユージ:
今は、両方問題ないと思いますよ。
お父さんとは今でもLINEでやりとりしてますし(笑)
電話も英語でしたり。
日常でも英語を話す機会はありますしね。
去年お父さんが日本に来て、
バラエティーの収録現場や観光案内してあげましたよ。
知識量として日本語の方が多い気はしますが
英語で会話する分には全く問題ないです。
特にフォーマルなビジネスとかでなければ。
セレン:
勉強がお嫌いということなんですが、学校の英語成績などは
どうだったんでしょうか?
ユージ:
未だに文法用語とかはわかんないですよ。
形容詞とか接続詞とか…
高校とかの授業でも成績はそんなによくはなかったですが
書いてる文章が変だったり、リスニング問題なんかはもちろん
簡単に理解はできましたね。
あとは先生に発音の授業の時なんかは読まされたりしましたね、
はい、ユージこれ読んでって(笑)
アメリカ人の先生も僕くらいしか話す人いなかったからよく
二人で話してましたよ。
一応英語を封印してた時期なんですが、
発音だけはよかったんで、話しても通じたんですよね。
セレン:
話はガラッと変わるんですが最近ご結婚されるまで、
独身の頃ってすごくモテたと思うんですが。
ユージ:
ええ、モテましたね(笑)
いえいえ、嘘です。
まあまあです、まあまあ。
セレン:
じゃあ、そんな恋のエキスパートのユージさんに
ぜひ恋愛、恋のシチュエーションで使える英語フレーズを
お伺いしたいんですが。
英語では恋愛の駆け引きなんかは flirt なんて言ったりしますが、
なにかいいフレーズとかありませんか?
ユージ:
うわあ。
外国人と付き合ったことないからなあ(笑)
英語の中でも一番レパートリー少ないかも(笑)
愛はずっと日本語で伝えてきたんで。
(しばらく考え込む)
全然出てきません(笑)
セレン:
出ませんね(笑)
ユージ:
まあ、その時になれば口は達者なんで出るとは思うんですが…
今は…
出ませんね(笑)
セレン:
英語でのコミュニケーションでユージさんが
一番大事だと思われることってなんですか?
ユージ:
僕は「シンプルさ」かなあって思います。
みんな、僕の周りの友達もそうなんですけど
英語って難しいと思ってて簡単に言えることも
難しく考えすぎてて話せなくなっちゃうことってあると思うんです。
相槌とか挨拶なんかもそうですが、
ボディーランゲージなんかも同じくらい大事だと思いますよ。
"No" の言い方ひとつでも
"NO!!"
とか
"Well…no…"
とかもあるわけじゃないですか。
今知ってる英語だけでまずは十分やりとりできるんだよ
ってのは知ってほしいですよね。
自信を持ってほしいですよね。
セレン:
コミュニケーションという大きな仕組みの中に
ひとつの手段として英語があるわけで、
そもそも英語ができない=コミュニケーションができない、
という図式に変換してしまうのはもったいないですよね。
ユージ:
ほんとそうなんですよ!
変な話、英語できなくてもジェスチャーだけで
できるくらいの会話だってありますからね。
今思い出したんですけど
アメリカいたとき、僕も初めは自信なかったんです。
その自信のなさをお父さんが汲み取って
「ユージ、もっと自信持てよ。アメリカ人でももっと下手な奴はいるぞ。
むしろお前の英語は丁寧なくらいだ。」
って言われたんです。
その一言は自信をくれましたね、僕に。
あんなにカタコトだった自分の英語をそうやって認めてくれた。
大きな一言でした。
セレン:
それは素敵な言葉ですね。
ユージさんは今も英語をキープされてるということですが
なにかオススメの英語の触れ方なんかありますか?
ユージ:
日本語をまったく話せない人と話すのはいいですよね。
あ、それこそオンラインレッスンなんてむちゃくちゃいいじゃないですか。
すごい、いいなと思いましたよ。
世界中の人と話せるってすごいですよね。
しかもオンラインだから日本人のシャイな部分をうまくカバーしてる。
カフェとかでも英会話レッスン中の光景は見ますけど
あの空間で先生と向き合って英語を話すって勇気いりますよね。
だから画面越しだと少し和らぎますよね、その緊張感も。
あとはなかなか出会えないじゃないですか、英語を話す人と
日本にいると。
そういう点でもいいですよね。いつでも英語話していいんだから。
セレン:
では、最後に。
今も日本には英語を身につけたい、話せるようになりたい
という人はたくさんいます。
そういう人たちに、これだけたくさんの経験を
してきたユージさんから一言アドバイスをいただけないでしょうか?
でもって最後のアドバイスだけ英語で。
ユージ:
うーん、わかりました。
"Don’t be afraid.
Don’t worry.
Your English is perfect.
Keep talking and you’ll be better."
かな。
セレン:
その言葉って、
もしかしたらユージさん自身がお父さんから
かけられた言葉だったんじゃないですか?
ユージ:
あ、そうかもしれません。
気づかなかった。
正直、昔は英語で言おうとすることをよく途中で諦めてたんです。
"Well.. I was like , you know, well…."
とかってなっちゃって言いたい事が言えなくて。
で、もういいやってなっちゃって。
"Never mind."
ってよく言ってた。
でも、そんな時お父さんはきまって
"Come on, keep talking.
I’m listening."
って言ってくれたんです。
で、その言葉で、よしなんとか自分の言葉で
言おうって思えた。
そうすると向こうも頑張って引き出そうとして、
もっと聞こうとしてくれる。
そういう意味で僕がお父さんに言われたことを
そのままみなさんにも伝えたいですね。
セレン:
あの時英語ができなかったユージさんがお父さんから
もらった言葉を、今度はユージさんが次に英語を学ぶ人へ
受け継いでいく。
そうしてマインドのバトンタッチのように、
僕たちは次へ次へ広げていくんですよね、きっと。
ユージさんから自然とそうして
お父さんの言葉がまたご自身のフィルターを通して
出てきたことにとても感動しました。
ユージ:
僕も驚きましたね。
僕のお父さんが多くの人を
救った瞬間ですね(笑)
僕もその言葉で救われたんです。
全然喋れないもんだから、話すのなんて失礼かなって当時の僕なんか思ってしまってて、
そういう考えを全部変えてくれた。
絶対言いたいことは言い切ったほうがいい。
諦めずに。
そうやって英語は上達していくもんなのだと思います。
セレン:
これから英語を学ぼうと思っている人、
そして今も頑張っている人に大きな希望に、そして勇気に
なるお話を伺うことができました。
本日はありがとうございました。
ユージ:
こちらこそ、そう言ってもらえて嬉しいです。
ありがとうございました。
ハーフでバイリンガル。
その条件だけで僕たち日本人は
英語くらい話せて当たり前なんだろうなあ、
とどこかで思ってしまうところがあるのかもしれません。
でも今回のユージさんのお話を伺い、
僕自身、目が覚めるような思いでした。
こんなにも大変な苦労をされてきたのか、
こんなにも多くの悲しみを背負ってきたのか。
そして、それらの全てをこんなにも明るく
笑い飛ばせてしまうのか、と。
英語ができる、という力のバックグラウンドには
人の数だけ物語があって、そしてその物語の数だけ
たくさんの「経験」があるのだな、と改めて感じました。
言いたいことはすべて言い切ろう。
というユージさんの言葉は非常に多くの意味を含んだ言葉だと僕は
感じました。
うまくいかないこと、上達しないこと、
諦めないで、どんどんぶつかっていこう。
大丈夫、きっとうまくなるから。
みんな君のことをしっかり聞いているよ。
昔のユージさんがお父さんからもらった
プレゼントのような言葉、そして思いを
今日、僕らはユージさんを通じて
受け取ることができたのだと思います。
貴重な体験を包み隠さず話してくださった、
ユージさん、ありがとうございました。
さあ、次はあなたの番です。
この思いのバトンリレーを、
あなたは誰に渡しますか?
誰と分かち合い、誰に受け継いでいきますか?
そんな思いを胸に、
僕自身また明日に向かって歩いていこうと思います。
セレン
衣装協力:スタイルワークス 銀座☎03-6228-5780