新井 リオ
(更新)
『Q&ABC』は、「英語日記BOY」の著者・新井リオが、「英語・海外生活」にまつわるみなさんからの質問に答えていく連載です。
(質問はこちらからできます)
第17回のテーマは「英語を学び続けることによる心の変化」についてです。
今年の7月にチェコにピアノで短期の留学に行きたいと思っています。
そのきっかけは、色んな出会いがあった中でさまざまな人に刺激をもらったことが大きく、私にとってリオさんもその1人です! 感謝しています。
そのチェコで受けるアカデミーのピアノレッスンの共通言語として英語を選択できるということを知り、これを機に「やはり英語を話せるようになりたい」と強く思いました!!
では、私からの質問をさせて下さい。
「座右の銘はありますか?(英語)」
「リオさんは、英語を学び続けることでどのような心の変化がありましたか?」
よろしくお願いします。
チェコ、いいですね。
チェコにピアノで短期留学、聞くだけでワクワクするほど素敵です。
昔ヨーロッパを一人旅したとき、首都のプラハに寄りました。フランスでお財布を盗まれてしまい、急遽プランを変更して比較的物価の安い国…とたどり着いたのがチェコだったのですが、感激でした。
プラハは街全体が世界文化遺産なんですよね。消沈した心が癒されていくのを感じました。
この記事が投稿されるのが9月ですので、質問者のMoeriさん、ちょうどチェコに居るときだったりするでしょうか。海を越えて届いたらいいなと思いながら書きます。
英語の座右の銘、あります。これは最後に紹介します。
まずは「英語を学び続けたことによる心の変化」について。
単に英語が話せるようになったという事実を超える内的な進化が、英語学習にはありました。
まず、このトピックを考える上で重要な前提の話からします。
日本人は英語に対して劣等感があるといいますが、そもそもこれはなんでですかね。
母国語である日本語(これも大変美しい言語)を完璧に話せるだけでも本当は十分なはずなのに、母語ではない英語を話せないことを恥ずかしいと感じる。
これ、例えばチェコ語だったらどうかな? と。
チェコに大変な興味がある方などを別にすれば、多くの日本人にとっては、チェコ語が話せないことを恥ずかしいと思うことは、日常ではあまりないかもしれない。
にもかかわらず、英語に対しては劣等感がある。
これは、英語はもはや、アメリカやイギリスで母語として話されている言語という枠組みを大幅に越えた「国際共通語」だからです。
「英語が話せる」が世界の常識となりつつあるのに、その常識をうまく扱うどころか、触ることすらできない。この、みんなができることを自分ができない(ように思える)状況に対する自分への情けなさ。これが原因なんだと。
この前提を踏まえた上で、「英語を学び続けたことによる心の変化」を2つ考えてみました。
ある程度英語が話せるようになった今、「やっと、世界のスタート地点に立った」と思えるようになりました。
日本人が海外に向けて行動する際、質問者のMoeriさんであれば「ピアノ」、僕であれば「イラスト」と、突き詰めたい別の何かがあると思うのですが、英語が話せないと、そもそもスタート地点にすら立てていない感覚がありませんか?
例えばカナダ人が同じ英語圏のアメリカに何かを挑戦しに行くとなった際、彼らは「言語」で悩むことはない。つまり、最初から「本当に突き詰めたいもの」に対して悩める。
それに比べると、海外挑戦というトピックにおいて、日本人は悩みのレイヤーが一つ多いのではないかと思いました。
これはもう、メリット無しの不運とさえ感じるときがあります。
僕は20歳から約7年間、おそらく1万時間くらいは英語に費やしているのですが、これを全てイラストに使えていたらどれほど絵が上手くなっただろうなとか、たまに妄想します。英語の話せない日本人として生まれてきてしまったことを悔しく思ったことさえあります。
しかし、受け入れるしかない。
自分に対してこう言います。
「とはいえこれは、自分が勉強すれば解決する悩みじゃないか」と。
今、完璧とは言えないですが英語が話せるようになり、当時抱いていたような劣等感はかなり薄くなったと思います。ついに世界のスタート地点に立った感覚。純粋に自信がついたと言えます。
そういう意味で、自己肯定感を上げるツールとしての英語。そう捉えてもいいくらいのパワーがある。
また、世界のスタートラインに立った時点で既に、「第二言語習得」というかなりハードな壁をひとつ乗り越えている自分は、当たり前のように英語が話せる環境に生まれた人よりも、海外で言葉がひとつ伝わることの有り難みをより感じることができるし、自分のようにゼロから言語を学んだ他人の努力を、より親身に感じ取ることができる。
悩みのレイヤーが一つ多かった分、感動の体験も一つ多いのではないか。
こう考えると、これまでの努力は何一つ無駄ではなかったと思うことができます。
次に、視野の話。
簡単に言うと、英語によって圧倒的に視野が広がったのですが、どう広がったか、具体的に話してみます。
まず、冒頭で述べた劣等感から、海外挑戦において「日本人はそもそもマイナススタート」だと思っていた時期がありました。自分を悲劇のヒロインのように扱っていたのですね。
しかし、英語の勉強のためにと思って読むようになった海外のニュースを見ていると、これが本当に厚かましい思考だったことに気づきます。
例えば最近BBC Newsを見ていると、毎日、一番大きなトピックとして取り上げられているのがアフガニスタンのニュースです。
もちろん日本でも報道はされますが、割かれる時間や熱量が全く異なるように思います。また、使われている映像も違う場合が多く、その緊迫感がより伝わってきます。
あと、これはなぜだかうまく言語化できませんが、日本にいながら日本語で日本の報道局のニュースを見ていると、いくら海外のことが取り上げられていても、なぜか自分ごととして体に浸透してこない感じもあります。
話を戻します。
アフガニスタンの難民の方。
彼らがただ普通の生活をするということだけで、一体いくつのレイヤーがあるのだろうか。考えるだけで心が痛みます。
同時に、「日本人はマイナススタート」なんて思っていた自分の恐ろしいほどの視野の狭さに驚愕するんです。
僕が「英語を話せるようになりたい」と言っている横に「人権を脅かされない生活がしたい」という人が現れた。衝撃を受けます。
これが、先ほど「とはいえこれは、自分が勉強すれば解決する悩みじゃないか」と言った理由でもあります。
では難民問題は、何をすれば解決するのか?
それはわかりません。みんな正解がわからない。しかし、もはや当事者ではないと思われた第三者が動かないと解決しないことはわかる。だから世界は動き出している。
ここで大事なのは、解決方法がわかっていることではなく、彼らが僕たちよりも切迫した何かを抱えながら生きていかなければいけないのだという事実を、一度、彼らではない僕たちが、自分の頭で真剣に考えたことがあるかどうかだと思うんです。
この第三者としての自覚が、これからの自身の行動に大きな影響を与えるはずです。
また、世界の問題は、難民問題に止まりません。本当に色んなことが起こっている。
能動的に情報を得ることができるくらいの英語力がついた今、僕にとって世界は憧れの対象ではなく、当事者として向き合うべき対象となりました。
個人の問題だと思っていた「英語」が、自分と世界を本当の意味で繋げる初めての導線になったんです。
この意味においても、「やっとスタート地点に立った」という表現が当てはまると思います。
国際共通言語である英語は、世界のさまざまな問題における「自覚の種」となる。
そして、さまざまなことを自覚した、つまり本当に視野が広がった人がおこなう仕事、生み出す作品、考え出す言葉というのは、それ以前に比べ、より魅力的で、意義深く、世界に存在すべきものになっていくのだと僕は思います。
最後は座右の銘で締めます。
「Back to the Future」でドクが言ったこのセリフ。
Your future hasn’t been written yet. No one’s has. Your future is whatever you make it. So, make it a good one.
(意訳:君の未来は白紙だ。誰の未来もそう。未来は、君が今から作る何にでもなる。せっかくなら、いい未来を描こうじゃないか)
中学時代、ある英語の先生が、「Back to the Future」を一緒に見てセリフを読み解いてみよう、という素敵な授業をしてくれました。
そこで知ったこのセリフ。
世界が開けていく感覚がありました。
過去には色がついてしまっている。けど、未来はまだ白紙なんだ。
ドクの言う通り「君の未来は白紙」ならば、「世界の未来もまだ白紙」なんです。だとすれば、僕たちの今日おこなう小さな行動の重なりが、未来を創り上げていく。
英語を学び、世界に出ると、自分自身がアップデートされる感覚がきっとあると思います。
変わることはときに怖いですが、価値観がずっと変わらないことの方がおそろしいとも今は思えます。本当に色んなことを教えてくれる英語学習がやっぱり好きです。
質問も引き続きお待ちしています!
英語・海外生活に関する悩み、こちらからお気軽に相談してください。
書籍「英語日記BOY 海外で夢を叶える英語勉強法」絶賛発売中!
「英語日記」勉強法、オンラインレッスンの使い方、カナダでのデザイナー生活に至るまで、5年間の全てを書き尽くした新井リオの「自伝的学習本」です。