新井 リオ
(更新)
Q&ABCは、『英語日記BOY』著者の新井リオが、「英語・海外生活」にまつわるみなさんからの質問に答えていく連載です。
(質問はこちらからできます。)
第28回のテーマは「海外の方とのコミュニケーションで気をつけていること」についてです。
失礼なことを聞いたりしているわけではないのですが、私の質問は周りの盛り上がりをなんとなく下げてしまっているような気がします。
新井さんが海外の方とのコミュニケーションの中で気を付けていることはありますか。
僕が海外の方とのコミュニケーションで気をつけていることは、「無自覚な差別をしてしまっているかもしれないことに意識を傾け続けること」でしょうか。ご質問と少しずれていたらすみません。でもすごく大切なことで、ずっと書きたいと思っていたテーマでした。
あからさまな人種差別など、当然のように反対ですが、本人にはまったく悪気のない差別というものが確実に存在していて、現代を生きる僕たちは、そこにも目を向けるべきなんだと思っています。
例えば、欧米生まれの人に対して「彼らは自分よりもかっこよくてすごい人なんだと思い、恐縮しすぎてしまう」ということが、多くの日本人にとって起こるのではないでしょうか。
自分自身、昔は英語が話せる外国人というだけで、彼らのことを人間的にも優れた人たちだと思い込み、常に「こんな自分で申し訳ありません」みたいな姿勢で彼らに接していました。
なんでこうなっちゃうんですかね。
まずは英語力でしょうね。言語レベルでいうと、ほとんど大人と赤ちゃんが話しているみたいな感じなのに、こちらもマインドだけは成長してしまっているから、そのギャップから生まれる恥ずかしさと情けなさを、どうにか態度だけでも謙虚にしてバランスを取ろうとしちゃうんです。
あとは見た目の違いでしょうか。こんなこと本当は書くのも恥ずかしいというか、こういうことを思っちゃう自分が嫌なんですが、やっぱりどうしても、背が高くて、顔立ちがスラっとしている欧米の人たちを目の前にすると、恐縮しちゃうんです。こんな自分と話してもらっちゃってすみません…みたいに。
見た目だけでこんなこと思うの、すごく嫌です。でも、同じ海外の人でもアジア系なら親近感が湧いてあまり緊張しないのに、日本で出会う機会の少なかった白人や黒人の方だと緊張する、みたいなことがたしかにあったなあと思います。
カナダに住んでいたとき、ある夫婦と出会いました。二人ともカナダ人ですが、彼はカンボジア系、彼女はフランス系のカナダ人です。
彼女の方は、僕より少し背が高い白人の女性でね、やっぱりそういう、スラーっとした白人の方を見ると、芸能人を街で見かけたときのような、「おおーかっこいい…自分と違って華があるなあ…」みたいな。そういうのを感じてしまっていたのですね。だから、最初は、特に彼女と話すのは緊張したんです。
そのようにして始まった僕たちの関係性ですが、あれから6年が経ち、今では冗談も言い合えるし、悩みも相談できるし、(コロナ禍を除いて)毎年お互いの国を行き来し、合鍵を渡しておうちに泊まり合い、これを親友と言うんだなと心から思える友人になりました。当たり前ですがもうまったく緊張しません。
こうなれたのは、自分の変化というより、彼らの人間性のおかげだろうなあと思っています。
出会って間もない頃、僕がデザインや音楽をしていることを知った彼らは、「ぜひ見せて!聴かせて!」と食いついてくれたのですね。その頃の僕の心境は、「えーー、こんなにかっこよくて可愛くて、英語もペラペラな憧れのカナダ人が、こんな自分みたいな人間の作品を見てくれるんですかー! すみませんー!!」という感じでした。ださいですね。
そんな思いとは裏腹に、彼らは僕の作品を見て、すごく褒めてくれたんです。目を輝かせながら、リオのことを本当に尊敬する! とまで言ってくれました。
それでも、当時の僕の自尊心の欠如があまりにひどくて、最初はその言葉すら疑っていたような気がします。
ある日、(カナダでは本当に珍しいのですが、)街を歩いていると、現地の5~6人の男性に、アジア人に対する人種差別の言葉を一斉にかけられたときがありました。無視して通り過ぎましたが、彼らは差別発言を言い終わった後も、ずっと笑いながらこちらを見ていました。
すごく悲しくて、一人で抱えることが辛くなってしまい、その日の夜、夫婦にその出来事を伝えました。すると二人は、「許せない。カナダでリオにそんな悲しい思いをさせてしまって、本当にごめんね」と言いハグしてくれたんです。
今でも思い出せるあたたかさ。嬉しかったなあ。うん、もう大丈夫、もう全部大丈夫になったよって、泣きながら二人を強く抱きしめました。
それで気づいたんです。ああ、少なくともこの二人は、出会ったときから一切壁を作らず、本当にフラットに僕を迎え入れてくれていたんだと。
勝手に彼らを上、自分を下に見積り、褒め言葉さえも疑って、壁を作っていたのは僕の方だったんですね。
差別って、一般的にはだれかを見下す行為を指しますが、これもある意味での僕からの差別だった…といったら言い過ぎですかね。せっかく二人はフラットに見てくれているのに、僕が上下の構図を作り出して、勝手に彼らの存在を高く見積もっていたんです。
これって彼らからしても、嬉しいことではなかったんじゃないかな。上から下ではなく、下から上に見上げる差別。こんなのもあるんだなと感じました。
でも、こういうことって、日常に蔓延していると思うんです。
現在日本に住んでいるオランダ人の友人がいるのですが、彼女、10年以上日本語を勉強していて、ほとんどネイティブの僕たちと遜色ないくらい日本語が上手いんです。
ただ、外見が白人なので、いまだに「こんにちは」というだけで「日本語が上手いですね!」と言われ、お箸で何かを食べただけで「すごいー!」と言われるんですって。
優しい人ですが、「これには疲れたよ〜」と本音を漏らしてくれたことがありました。こんなに日本が好きで、日本の文化も言語も熱心に勉強して溶け込もうとしているのに、見た目が違うという理由だけで、この国では「外国人でいること」から抜け出せないんです。
ちょっと海外の多国籍文化に慣れてくると、こういう話を聞いたとき、「日本人はそういうところがあるから困っちゃうなあ」と言いたくなるんですが、でも、昔の自分だったら同じようなことを悪気もなく言ってしまっていたと思うんです。
今、さまざまな差別が社会問題になっていますよね。
多くの人が、差別は良くないとわかっている。それでも意図せず誰かを傷つけてしまうことって、これからもあり続けるんです。
だから、「私は一切の差別をしません!」という主張は、実は危険だと思っています。
本当に必要なのは、自分も誰かを傷つけてしまっている可能性があることを、常に内省する習慣なのだと思います。
僕はさまざまな差別に断固として反対します。だからこそ、自分がまだ無自覚に持ってしまっているかもしれない偏見や差別にも、厳しい目で向き合わなければいけないと思うんです。
難しそうに聞こえるかもしれません。それぞれが社会で起こる差別問題についての勉強を重ねて改善していくのが理想ですが、でもこれは、その差別に対する知識があるかどうかだけが論点ではないと思うんです。
もっと想像しよう、ということなんだと思います。
誰かを無自覚に傷つけてしまうときって、その発言や思考が限りなく主観的なんです。
「欧米の人って自分よりもかっこよくて恐縮するなあ」
「外国人なのに日本語がうまくてすごいなあ」
これ、全部主観です。
彼らからしたら、僕たちもかっこいいんだと思います。本当はどこまでも平等なのに、平等でなくしているのは僕たちだった、という場合がある。
その思考があまりにも主観的だったことに気づける客観性を養うには、まずは想像力なんだと思います。
正直、こんなことを本気で考えたり、書けるようになったのは最近の話です。
中学時代、いじったりいじられたりする風潮が当たり前に存在していたので、僕も当然のようにだれかをいじっていたと思います。
でも、例えばちびとかでぶとか言われて、「ああ嬉しいなあ、幸せだなあ」と心から思う人って、この世に存在するのかなあ。当時は想像力が足りなかったし、同調圧力に勝てなかったから、自分もやったり、やられたことに声を上げずに、見過ごしてしまってきました。
今だったら絶対にやらないような、尊敬できない行動や言動を、過去の自分がやってしまったことがある事実が情けないんです。自分にもそんなポテンシャルがあったことが、本当に悲しいです。
でも、だからこそ、今の自分は変わらないとな、と思うんです。意識をしすぎるくらいでいいと思う。誰かを傷つけてまで取る笑いに本当に意味があるのかを、今は改めて考え直しています。
質問も引き続きお待ちしています!
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