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年間40本の翻訳をつづけて30年!戸田奈津子氏の「好きこそものの上手なれ」な生き方とは

年間40本の翻訳をつづけて30年!戸田奈津子氏の「好きこそものの上手なれ」な生き方とは

目次

戸田 奈津子
字幕翻訳家。1936年生まれ。東京都出身。津田塾大英文学科卒。
小学生の頃から母親と映画館に通い、多くの名作に出会う。大学在学中に字幕翻訳家を目指すことを決意。生命保険会社の秘書を経て映画字幕翻訳者の清水俊二氏に師事。米映画監督、フランシス・フォード・コッポラ氏の推薦で映画『地獄の黙示録』(1979年)の翻訳を手がけたのを機に映画字幕翻訳者として本格的に活動。以来、現在に至るまで年平均40本ペースで翻訳の仕事を受けている。
▷書籍『KEEP ON DREAMING 戸田奈津子』

突然ですが、“映画字幕翻訳家の名前を1人だけ挙げてください” と言われたら、あなたは誰の名前を挙げますか? すぐに戸田奈津子さんの名前が思い浮かんだ人は多いのではないでしょうか。

戸田さんは、1980年日本公開でフランシス・フォード・コッポラ監督が手がけた『地獄の黙示録』で字幕翻訳を担当したことを皮切りに、売れっ子字幕翻訳家としての人生を歩み始めました。

現在、御歳79歳。今なお第一線で活躍し続ける戸田さんのバイタリティーはどこからくるのか? どうして字幕翻訳家という夢を叶えることができたのか?

映画の世界にのめり込んだ学生時代の頃まで遡りつつ、戸田さんの「夢を叶える原動力」はどこにあるのかを紐解いてみました。明け透けに語っていただいた、映画翻訳の仕事を巡る本音の言葉をお楽しみください。

とにかく「映画」にのめり込んだ学生時代

まずは戸田さんの幼少期について教えてください。

子どものころは本の虫でした。とにかく物語の世界が好きだったんです。本を読んだという経験が今の私の財産になっていると思っています。

どのようにして、映画の世界に心惹かれていったのでしょうか?

終戦後、洋画がアメリカやヨーロッパ諸国から一気に日本に渡ってきたんです。文化に飢えていた当時の日本人にとって、映画の世界は衝撃的なものでした。TVはまだ未知のメディア。娯楽がほとんどなかったため、映画を観に行くということが当時の日本人にとって最大の楽しみでした。

私も母に連れられて映画館で洋画を見るようになりました。『キューリー夫人』や『チャップリン』、『第七のヴェール』……。それらの映画たちは、それまで本以外では触れる機会のなかった海外の世界を、私の目の前にリアルに映し出してくれました。もともと物語の世界が好きだったということもあって、すぐに映画の世界に夢中になりました。

高校生の頃は、おこづかいを切り詰めて映画館に通いました。新作の映画なんて当時の学生にとっては高嶺の花でしたから、3本や4本立てで100円とか、50円で観られる名画座によく行きましたね。大学生になってからは、友達に授業の代返をお願いして映画を観に行っていました(笑)

そうしているうちに、字幕翻訳家になりたいと思った?

就職活動のとき、友人に「あなたは何になりたいの?」と聞かれて、無意識に出たのが「字幕の翻訳をやりたい」いう答えでした。でも業界へのパイプもないですし、そもそも正規のルートで翻訳家になる道はありませんでした。

唯一の手がかりは、映画の中でクレジットが出てくる翻訳者に直談判すること(笑)
同級生が就職活動に勤しむなか、私は藁をも掴む思いで翻訳者の清水俊二先生に手紙を書き、奇跡的にお会いする機会を得ました。

でも、字幕翻訳家の門はせまく、そうやすやすと入れるものではありません。結局、学校の紹介でとりあえず第一生命の社長秘書室に腰掛けのつもりで就職しました。

英会話を身につけたのは、30歳を超えてからだった

そこからどのように翻訳家への道のりを歩んだのでしょうか?

秘書として働きながらも翻訳家の夢を諦めきれず、清水先生への暑中見舞いや年賀状に「まだ字幕への夢は捨てていません」と一筆添えて送っていました。結局のところ大企業の組織は私の肌に合わず、秘書の仕事は1年半で辞めてしまいました。

その頃から翻訳バイトを個人でこなしながら、ときどき清水先生に仕事の話を伺うという歳月でした。先生も根負けなさったのか、30代初めの頃に、日本ユナイト映画という会社を紹介して頂き、翻訳アルバイトをすることになりました。アメリカ本社への手紙を翻訳したり、新作のストーリーを訳すような仕事です。でもとにかく、それが洋画界への最初の足がかりになったのです。

そんなある日、転機となる出来事が起こりました。日本ユナイト映画の宣伝部長をしていた水野晴郎さんから、急遽来日が決定した海外映画プロデューサーの会見の通訳を依頼されたんです。

当時、英会話の経験はあったのですか?

いえ、まったく。晴天の霹靂ですよ。これまで一度も海外に行ったこともないし、英語を話す機会なんてなかったんですから。

でも、水野さんは「英語の翻訳ができるなら会話もできるでしょ?」の一点張り。
それに私自身、少しでも字幕の仕事につながるチャンスがあるのであれば、断るわけにはいかないと思ったんです。それで意を決して、思いもしなかった通訳の仕事に臨みました。

会見当日は、緊張で汗びっしょり。そりゃあ大変でした。英語はひどいものでしたが、話す内容は映画に関係したものだったし、単語から文脈や背景などを読み取りながら、なんとか乗り切ることができました。
しかし自分としては、決して合格点をつけられる出来映えではありませんでした。これでクビだと思うほどに落ち込みましたね。でもどういうわけかクビにならず、これを機に、通訳の依頼が舞い込むようになったのです。

肝心の字幕のほうは、別の会社からフランソワ・トリュフォーの『野生の少年』の翻訳を依頼されました。これが私の初めての字幕翻訳の仕事になります。

大学を卒業して、ほぼ10年が経っていました。当然のことながら、意気込んで仕事に臨み、原稿も推敲に推敲を重ねました。でも映画の完全版を初めて試写室で観たときに、愕然としました。

下手だったのです。字幕はただ英文を日本語にするだけではない。画面に違和感なく調和する日本語訳が必要で、この感覚はやってみないと分からないのです。

この時点で字幕翻訳の仕事はまだまだ少なく、それだけで食べていくことはできませんでした。本格的に活動に加速がかかったのは、それから約10年後の『地獄の黙示録』のときでした。

生きた英語は、全て映画から学んだ

どうして、海外経験ゼロ・英会話の経験もゼロだったのに、通訳の仕事ができるまでになったと思いますか?

英語の読み書きを仕事にしていたし、ボキャブラリーの蓄積があったからだと思います。英語の勉強は読み書きの基礎があれば、後はプラクティス、「実践」です。実際にしゃべって経験を積むほかありません。

学生時代は、英語をよく勉強していたのでしょうか?

そんながむしゃらに勉強した経験はありません。人並みに頑張ったという感じでしょうか。

学校の勉強は基本的に退屈でしょう? 私も特に英語の授業が好きだったわけではないんですよ。映画が好きだったから、「映画で耳にする英語を知りたい」というのが最大のモチベーションでした。つまり “映画あっての英語” だったのです。

学校で英語の勉強をするのはもちろんですが、やはり映画からも生きた英語を教わっていた?

そういうことですね。学校の英語は基本的で固い。くだけた日常会話とか、流行語・若者言葉は教科書では学べません。そういうものは全部映画から学びました。

当時はビデオやDVDは存在しませんから、映画館で見るのが唯一のチャンス。今みたいに、劇場で観て面白かったから TSUTAYA でDVDをレンタルする、なんてできないですからね(笑)
若い皆さんは笑うかもしれませんが、当時は「今日のこの機会を逃したら、もう一生観ることはできない」。そういう切ない意気込みで観ていたのです。

私の英語学習は「二本立て」と言うのが正しいのかもしれません。学校が教えてくれるフォーマルな英語と、映画から学ぶ生きた英語。両面で詰め込んだ英語の知識が、結果的には役に立ったんでしょうね。

もし戸田さんが映画を好きではなかったら、英語を勉強しましたか?

それはわからないわ(笑)
英語はあくまで映画の世界に近づくための「手段」であって、それ自体が「目的」ではなかったですから。

年間40本以上の映画を翻訳し続けてきた、戸田奈津子流 仕事術

1994年に発刊された著書『字幕の中に人生』のなかには、翻訳するまでに数回しか映画が観れないとありましたが、2015年現在の仕事振りも同じようなものなのでしょうか?

『字幕の中に人生』を書いた当時は、まだデジタルやインターネットが普及してなかったので、試写室でフィルムが『完パケ』された映画を観ていました。『完パケ』というのは、もう完成された映像のことです。

ただし、何度も試写室に足を運ぶことなんてできません。なので基本的にはたった一度観ただけで、翻訳にとりかからねばなりませんでした。神業のようですが、スケジュール的に何度も見返す時間は与えられないのです。

でも今はデジタルの時代です。これから翻訳する作品を最初に観るのは、試写室ではなく私のパソコンの画面。それに、送られてきたデータは、CG映画の場合、1週間から10日も経てばどんどん途中で絵が変更・追加されていくんです。

1週間で中身が変わるんですか……?

そう。だから翻訳もその都度調整を入れなきゃならない。そういう調整が封切のギリギリまで繰り広げられます。字幕翻訳者にとっては大変プレッシャーの厳しい時代になりました。

ちょうど最近にも、この冬の大作映画の翻訳の依頼が舞い込んできて、大慌てしました。どういう内容か事前通達もなく、突然、依頼が舞い込んでくるんですよ? しかも1週間で仕上げるのが通例。下準備などできるものではありません。

とにかく1週間ほどで仕上げる。その過程で分からない部分があれば本で調べる、または専門家に聞く。そして原稿提出までに疑問の箇所を解決するというやり方をしています。

そういう大変な状況で仕事に挑まれるなか、どうやってモチベーションを保っているのでしょうか?

モチベーションは「それでもやはり映画が好き」ということです。好きなことだから「やれない」なんて言ってられない。だってもっと早く映画を完成させてと、アメリカの映画会社に文句言うわけにもいかないでしょう?(笑)

英語を使ってやりたいことがあるんなら、やるしかない

今英語を学習している人にメッセージをいただけますか?

何が目的であなたは今英語を勉強しているのか、そこを明確にしたほうがいいと思います。あえてやる理由もないんだったら、やらなくてもいいと思うのよ。

私は学生の頃、数学が大の苦手で嫌いだった。でも今、方程式が分からなくても何も困っていない。なんならあの時間は読書の時間にあてたかったくらいに思っています(笑)

英語学習は必要な人にとっては必要だけど、そういう人生を考えていないのなら、しゃかりきに英語をやる必要はないというのが私の考え方です。あくまで英語は道具(ツール)で、最終ゴールではありませんからね。
植木屋さんは鋏(はさみ)の使い方を習得しますが、それは木を美しく刈り込むためであって、鋏を使うことが目的ではないでしょう?

英語も同様です。その道具(ツール)を使って何をするかが肝心で、英語が上手くなることは目的じゃないと思うんですよ。何であってもやりたいことや目的意識があるなら、それにフォーカスしてやるべきだと思います。

英語を使って、何をやりたいか。そこをしっかりと言えることが肝心ということですね。

そういうことです。

「やりたいこと」の種は、小さい頃好きだったものの中にある

戸田さんは映画という好きなものに巡り会いましたが、それほどまでにのめり込めるものを見つけられない人に、どんな言葉をかけますか?

そうですね……私は、やりたいことを見つけられない若者が多いことに、いささか腹を立てているんですよ。

やりたいことを見つけられないのは、自分を分かっていないからじゃないかしら。だから周りの人を見て、右にならえをしたり、人の意見に振り回されてしまう。

でも、自分の好きなことがない人間は、この世の中に1人もいないと私は思っています。自分を見つめ直せば、好きなことの芽はちゃんと見つかるはずです。

どうすればその芽を見つけられるでしょうか?

保育園や幼稚園の子を見てください。「好きなことがない」なんて言ってしらけている子どもを見たことありますか? 絵を描いたり、歌ったり踊ったり、みんなが好きなことをして遊んでいます。小学校・中学校と「右へならえ」教育を受けるにつれて、自分が何を好きだったか忘れてしまっているのはないでしょうか。

『マスク』という映画で大ヒットしたジム・キャリーという俳優がいます。彼は表情筋が優れていて、驚くほどいろいろな表情ができる俳優さんです。
「どうしてそんなことができるの?」と尋ねたら、「子どもの頃から外で遊ばないで、時間があったら鏡の前で百面相を作っていた」って言うんですよ。親御さんが心配して、散々「やめろ」と教育してもやり続けたそう。そのうちに親御さんも諦めて、放っておいたんですって。そのまま表情づくりに情熱を燃やし、結局は彼はハリウッドのトップスターになったのですよ。

その人にとっての「好きなこと」「才能」って、子供のころの自分を思い出すときっと見えてくるはずです。ジムはこの話をしたあと、こういう一言を言いました。

“あなたの才能は、親が心配するようなところにあるかもしれない” と。

私の幸運は「20世紀にいい映画をたくさん見て、翻訳をしたこと」

これから字幕翻訳家としてどんなことにチャレンジしていきたいですか?

勘弁してくださいよ(笑)
私もう80歳になるのよ。20世紀にいい映画を年間40本ペースで翻訳してきて、もう十分働きました。字幕で新しい志を燃やすというより、これからは少しゆとりが欲しいですね。今までがあまりにも忙しかったから。自分の時間を作って、時間に縛られない暮らしができたら、と思っています。

クリント・イーストウッド監督など、戸田さんより先輩で今なお名作を作り上げる方もいらっしゃいます。

あの人は天才ですからね! 本当に偉大な監督です。今でも次々に見応えのある映画を作っている。彼の映画なら、いつでも翻訳したいと思いますね。

今までの映画翻訳の人生を振り返ってみて、いかがでしょうか?

この仕事のために、他のものをいろいろ犠牲にしてきました。結婚もしなかったし、子どもも作らなかった。とにかく仕事一途でした。

人間は全てを手に入れることはできません。でも「映画に人生を捧げた」みたいな大袈裟な話ではありませんよ。好きなことをしたかった。それだけです。
人生は短いのですから、人に迷惑をかけない限り、好きなことを生きがいにしても許されると思います。

どうすれば、戸田さんのように好きなことにフォーカスする人生を選べるでしょうか?

「ゆるく生きる」なんて考え方をしていたらダメね(笑)

やると決めたら、本気でやらないと夢は叶いません。
英語に関して言うならば、これからの人生でやりたいことを叶えるために英語が必要だったら、全力を尽くして頑張るべきでしょう。