DMM英会話ブログ編集部
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かつてアメリカは「サッカー不毛の地」と言われていた。4大プロスポーツ(アメリカンフットボール・野球・バスケットボール・アイスホッケー)が人気を博し、アメリカ人の気質に合わないとまで言われたサッカー。しかしピルロやカカ、ジェラードといったビッグネームが次々と メジャーリーグサッカー(MLS) へ移籍し、近年では観客動員数は世界トップクラスとなっている。
今回私たちはそんな MLS のチーム、ニューイングランド・レボリューションで活躍する小林大悟選手に話を伺うことができた。
インタビュアーは、DMM英会話代表の上澤貴生。
時は1993年、Jリーグが開幕し日本中がサッカー人気で湧いていた。ほぼ同時期にサッカーを始めたという。
「小学3年生から始めたんですけど、元々野球をやっていて本当は野球選手になりたかったんですよ。でも翌年Jリーグが開幕してその時の人気はすごかったですね。仲良かった友達もサッカーを始めて『みんなサッカー』っていうそんな時代でしたね。」
そんな時代に揉まれながらも才能を開花させ、清水商業高校へ入学。トッププレイヤーが集まる名門でサッカーのスキル、精神力を磨いた。
「学校の部活ですから誰でも入れますけど、やっぱり各地域の10番が集まるから『上手いヤツっていっぱいいるんだな。』っていうのが最初の印象です。」
小野伸二や名波浩、川口能活など数々の元日本代表を輩出してきた強豪サッカー部、もちろん練習は厳しかっただろう。当時の様子をこう振り返る。
「厳しかったですね~(笑)。なんていうんですか、今と違って怒られて頑張るみたいな時代だったので。監督も厳しかったですし先輩たちも怖かった、正に『昔ながらの体育会系』という感じでした。でもああいう高校生活があったから今やれてるっていうのはあると思います。」
高校卒業後、東京ヴェルディ1969へ入団。
「プロ一年目っていうのはすごい衝撃的でした。当時すごい方たちがいたんですよ。北澤豪さん、前園真聖さん、武田修宏さんなど、正に僕がテレビで見ていた人たち。そんなすごい人たちとチームメイトとしてやる日が来るなんて思っていませんでした。本当に夢みたいでしたね。」
そんな華々しい舞台でプロの人生を歩み始めた小林選手に転機が訪れる。
「最後の年(2005年)にチームがJ2に降格したんです。まぁ、移籍するなんて発想が全くなかったので一年で頑張ってJ1へ上がろうってチームのメンバーと話していました。そんな中、先輩たちがクラブ側から切られ始めたんです。その方たちがいなくなったら1年で J1に上がれるのだろうかという不安だったり、チームって自分たちが思っているよりも大事にしてくれないのかという思いがありました。もちろんチームを運営する上で仕方ないこともあるけど、選手の間でものすごい不安がありました。」
そんな時、大宮アルディージャから移籍の声がかかったという。
「北澤さんから8番の背番号を引き継いだし本当はヴェルディに残って、一年で頑張って上げなきゃいけないという責任と、自分が成長するために J1に残ってプレーするってとこですごい悩みました。」
悩みぬいた末、小林選手は大宮アルディージャへの移籍を決意する。しかし目標は J1で成長するということだけではなかった。
「本当はずっと海外へ出たいという思いがあって、ワールドユース選手権後ヴェルディの強化部長にもずっと伝えていました。なかなかそう簡単にはいきませんでしたけど。なので大宮アルディージャへ移籍する時に、海外のチームに行くチャンスを得た場合にはどんなタイミングでも行かせてくださいという契約を組み込んでもらったんです(笑)。」
ワールドユース(現在は FIFA U-20ワールドカップ)とは国際サッカー連盟(FIFA)が主催する20歳以下のナショナルチームによるサッカーの世界選手権大会である。この大会への出場経験が今後の活動に大きく影響した。
「ワールドユースでの出場経験は、今僕が海外でプレーするきっかけになった大会でもあります。そのとき川島永嗣と同じチームでプレーすることがあったんですけど、国際試合したりして海外出てやらなきゃだめだなって思いました。それが必ずしも正しいわけじゃないし、そうしなきゃいけないってわけでもないんですけど。でも単純に僕が見て感じたのはサッカー文化も違うような外の世界で得たものは大きいし、若いうちに経験できて今に繋がってるということです。」
そして兼ねてより希望していた海外移籍のチャンスを掴む。その舞台となったのはノルウェー、そのときの気持ちはこうだったという。
「正直、最初はそんなテンション上がらなかったです(笑)。」
「でもやっぱりすごく刺激的で、サッカーに対するモチベーションも高い一年間でした。
基本はノルウェー語が飛び交っていましたけど、ノルウェー人はみんな賢いので英語はすごく上手だし教えてもらうこともありました。チームのレベルも低くないし、有名選手と対戦することも出来てすごくいい経験になりました。」
得点もアシストもほぼ二桁という好成績を残し、ステップアップを求め移籍を希望。ドイツチームへの移籍ががほぼ決まっていたものの、蓋を開けると次の活躍の場はギリシャだった。
「ドイツのケルンとの契約がほぼ決まっていたんですけど、最後の最後でうまくいかずにギリシャになりました。まさかのギリシャだったんで、またあんまりテンションあがらなかったですね(笑)。でも行けばどこもおもしろいんですよ。
ギリシャのチームはすごく多国籍。球際なんか絶対引かないし激しいのでいつ怪我してもおかしくないような感じでした。それにヨーロッパは日本では知られていないようなめちゃくちゃいい選手がごろごろいたし、サッカーが国で一番のスポーツなんで発炎筒やら何やら煙でグランド内が真っ白になっちゃうくらい熱狂的でした(笑)。そんな異様な空気の中でプレーするのもなかなか味わえない緊張感がありましたね。」
海外で着実に経験値を上げ実力を付けていった矢先、怪我が小林選手を襲う。
「ギリシャでプレーしていたときに腰を怪我してしまって、手術が必要な状態にまでなってしまったんです。普通のヘルニアとはちょっと違って特殊なものでした。選手として第一線で戦えないんじゃないかっていうドクターの意見もあって、まさかここで引退なのか、って絶望しました。だから日本へ帰ってちゃんと言葉が通じるドクターに見てもらって手術して、それからまたチャンスがあるかどうかというのを試したかったんです。」
帰国後、手術を乗り越え清水エスパルスへ移籍。3年ぶりの日本でのプレー、世界と日本と違いや差をどのように感じたのだろうか。
「日本は日本のスタイルのサッカーがありますし、足元が器用。でもやっぱりアメリカと比べればエンターテイメント性だったり、ヨーロッパと比べれば激しさだったり、刺激が足りないと感じていました。もう一度海外へ出て常に自分がハングリーの状態でいられる環境が必要だと感じました。」
「国によって様々な文化がありますよね、サッカー環境だけじゃなくもっと全然厳しい中で生活している人たちもいます。日本が平和すぎるというか、そもそもハングリーさがないっていうのはメンタルの話なのでサッカーとは別のとこで話したいんですよ。もちろんメンタルもすごく重要なんですけど。日本は島国なのでその中だけで価値観を持ってしまいがち、もっと違う文化やサッカーに触れていかないと世界との差は埋まらないんじゃないかと感じました。」
ノルウェー、ギリシャ、北米そして日本を含め様々な地で生活し、プレーをしてきた小林選手。意外にも新しい環境に溶け込むのが得意な方ではなかったという。
「実は昔から環境の変化をすごく嫌う人間だったんです。大宮に移籍したときも最初はすごいストレスというか、一からまた自分が住みやすい環境を作らなきゃいけないっていうのが苦手でした。ただ、大宮からノルウェー、ギリシャとやっていくうちに、知り合う人たちと仲良くなって自分がその中で楽しんでいくっていう術を覚えました。だから二十歳のときと今と性格が全然違うって思いますね。」
環境の変化をポジティブに捕らえ柔軟に対応していく。これは海外生活をする上で重要なことの一つではないだろうか。また、海外でプレーをする際に意識したり気をつけていることがあるか聞いてみた。
「サッカーって世界中ほとんどの国でできる、他のスポーツではなかなかないことですよね。なので外国人だからっていう感覚があまりなくて、一人のサッカー選手として持ち味とか強みをアピールして評価してもらうという感じです。もちろん日本人の誇りだったり責任を持ってプレーするって言うのはありますけど、あんまり『外国人だから』っていう感覚はなくなっちゃいましたね。」
現在はアメリカに来て約3年。冒頭でも触れたが、アメリカのサッカーはここ数年で大きく変わりつつある。
「ヨーロッパから来てるスーパースターの顔ぶれが半端ないですね。リーグのレベルも上がって来ていますし、平均の観客動員数はJリーグを超えています。サッカー選手になりたいって言う子ども達も増えてるので、これからまだ強くなっていくと思いますよ。海外から選手がきて国内リーグが成長していて、何年か前の日本を見ているような感じ。これからまた一気に強くなると思います。」
また “アメリカならでは” のこんなエピソードも。
「試合前から駐車場とかでBBQが始まってるんですよ(笑)。キックオフする頃は皆酔っ払ってきてるし、そこから人がぞろぞろ増える感じ。アメリカンスタイルだなと思いましたね。」
今年でプロ15年目となり、現在所属しているニューイングランド・レボリューションではチーム最年長だという。選手としての強み、チームでの役割というのも変化しているようだ。
「アメリカでは自分みたいな選手は『技術が高く器用な選手』っていう評価をうけるんですよ。身体が大きい選手と戦うにはやっぱりその分どこにボールに置くか、どのタイミングでスピードアップしていくとか色々なことを考えてやらないと本当に危ないんです。ここに来る前は2年間清水エスパルスでプレーしてたので、1年目のとき日本の感覚でプレーしたら思いっきり身体ぶつけられて常に気が抜けないって思いました。なので年齢であまり動けなくなったとかいうのはあまりなく、今の方が色々頭が整理されてプレーできてるので選手としてのレベルは毎年アップしているっていう感覚はありますね。」
カナダのバンクーバー・ホワイトキャップスの在籍を合わせると英語圏での生活は4年目。日常生活で不便に感じることはもうないという。
「最初、ノルウェーではすごくストレスを感じました。学校で習ったことが違ったり、口に出して来なかったので頭では分かってるのに出てこなかったりしました。あとは自分自身の性格ですね。やっぱりテンポやフレンドリーさについていけなくて、英語の能力の前に自分自身の問題を感じました。もっと自分を知ってもらって相手に興味持たなきゃだめだと思いましたね。
今は英語が飛び交っているし、分からないことは選手に聞ける環境です。発音とか教えてもらったり、困ることはほとんどないですね。でも普段の生活の中で身に付けた英語なので、今後はカジュアルな英語だけでなくフォーマルな単語のチョイスができるようになりたいと思っています。」
また、小林選手自身未体験だというオンラインでの英語学習についても聞いてみた。
「もし日本にいてそういうチャンスがあっても、もしかしたら僕たち日本人の性格的にハードルが高いかもしれないって思います。やらなきゃっていうストレスだとか、更には画面越しに外国の方と話すって結構緊張感あると思うんですよ。でも今思えばそんな最高な時間ないと思うんですよ。そうやって英語が話せて勉強できるって恵まれてますよね。」
最後に川島永嗣氏が発起人の一人を努め、海外で活躍するアスリートをサポートするグローバルアスリートプロジェクトについてメッセージを頂いた。
「永嗣が言うとやっぱり説得力ありますよね。海外に出て言葉が通じれば色んなことが楽しくなるし見える景色も違う。前向きになれたり人との出会いや輪も広がってきます。なのでどんどん世界へ出て、完璧じゃなくても一生懸命英語を話していったほうがいと思います。
僕はサッカーだけが人生の全てだと思っていません。もちろんサッカーは人生において大事なものの一つですけど、一番は自分が楽しいとか幸せだと思えることが大事。そのためには外国語を覚えて色んなものを広げていくって重要なことだと思います。海外に出て活躍してる人やこれからする人をサポートがあるってすごく幸せなことですよね。どんどんチャレンジしてほしい。」
今も変化し飛躍し続ける小林選手。人生を更に豊かにしていくことを見据え、サッカーも英語も挑戦を続けると語ってくれた。
Gillet Stadiumにて。(左・上澤、右・小林大悟選手)