DMM英会話ブログ編集部
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昨年、村田選手は渡米5年目にして初めてメジャーの先発マウンドに立った。
巨人退団後アメリカへ渡り、今もいばらの道を歩み続ける。チャレンジし続けるその強さとはどこからくるものなのか。
今回のインタビュアーは自身も野球経験が長く、村田選手のファンでもあるDMM英会話代表の上澤貴生。
高校時代に甲子園出場を経験し、大学では全国大会でチームを優勝に導くなど、輝かしい成績を残してドラフト1位で巨人へ入団するも、一度も1軍のマウンドに立つことはなかった。
そうして迎えたプロ3年目、ついに戦力外通告を言い渡される。
絶望に打ちひしがれながらも、2010年に開催された12球団合同トライアウトに参加し、クリーブランド・インディアンスのスカウトを獲得した。
行かないという選択肢はなかったという。
「オファーをもらったときは特に迷うこともなく、すぐ行こうと思いました。
巨人2年目のときにアリゾナのホールリーグに派遣してもらって、メジャーリーグの卵みたいな選手たちと一緒にプレーしました。このリーグは各チームから有望な選手が派遣されてくるのですごいレベルが高いんですよ。バスター・ポージーなどの有名選手もいて、すごい楽しいというか刺激的でした。同じリーグにはストラスバーグがいて、対戦したときは全米中継もしていてましたし観客もすごい入っていました。当時は『いいな』と思いましたけど、日本の球団との契約がありましたし、自分の中でアメリカは活躍してから来るものだっていうのがありました。夢の世界というか想像の世界でしかなかったですね。」
※バスター・ポージー 捕手 / サンフランシスコ・ジャイアンツ所属
※スティーブン・ストラスバーグ 投手 / ワシントン・ナショナルズ所属
(2016年6月時点)
巨人時代憧れを抱いたアメリカでのプレー。
しかし戦力外通告を受け、その後、想像の世界だと思っていたアメリカへ渡りプレーをしている。
ものすごいドラマである。今まで長期で海外生活の経験がなかったが言葉や生活に特に不安はなかったのだろうか。
「なるようになるだろうって思ってました。行って覚えていくしかないだろうって。一回堕ちてどん底を味わっているのでそれ以下にならないだろうと思ったし、戦力外通告を受けたときに比べたら全然マシだろうって。」
「あれほどしんどいことはないですよ。」
そう語る村田選手は、当時の自分を冷静に分析しているように見えた。
『あれほどしんどい』という戦力外通告、またそれまでの学生時代についても聞かずにはいられなかった。
野球を始めたのは小学5年生の頃。当時は軟式の少年野球チームに所属しており、硬式野球は高校から始めたという。
「軟式から硬式に変わったとき初めは戸惑いましたけど、すぐ慣れました。当時の監督が声をかけてくれて、浪商(大阪体育大学浪商高等学校)でやってみようと思いました。」
そして1年生の秋からエースとして大会へ出場するなど頭角を現し、翌年には春のセンバツで見事に甲子園出場を果たした。
「甲子園はやっぱり一番の思い出、自分の人生が変わったことのひとつです。地元での開催でしたしオールドファンも駆けつけてくれて、キャッチャーが言ってる言葉も聞こえないくらいすごい歓声と熱気でした。」
卒業後は大阪体育大学へ進学。当時からプロ入りを意識していたという。
「やっぱりプロに行きたいっていう思いがあったので、大学選びは結構悩みました。体育大学は僕が入学する前リーグ7連覇をしていて、とても魅力的なチームでした。全国で投げれないとプロには行けないという思いが自分の中にあったので、絶対全国の舞台で投げたかったんです。」
大学でも全日本大学野球選手権大会でMVPを受賞し、チームの優勝に貢献するなどの活躍をみせた。
しかし、プロの世界へ飛び込んだ村田選手を待っていたのは予想以上に厳しい現実だった。
「ドラフトの指名をもらった時は、『とにかくやってやるぞ。』という気持ちでした。その年から逆指名がなくなって、指名されなかったらどうしようというか、行けなかったときのことを考えていなかったんですよね。学校の会場にもたくさんの記者の方が来ていて、それで何にもなかったらどうしようって(笑)。
プロ1年目は2軍でも手も足も出ないような感じで、野球選手としてやっていけないんじゃないかと思うくらい上手くいきませんでした。自分でもどうやっていいのかわからず壁にぶつかりましたね。2年目からは2軍でも中継ぎや先発をやらしてもらったり徐々に使ってもらえるようになって、そこからいけるんじゃないかという思いもありました。でも3年目でそれが上手くいかなくなったというか、色々な事情を感じた年でした。チャンスを活かせなかったという点と、いざという時にしっかり準備ができていなかったというのもありますが。」
戦力外通告を受けたときをこう振り返る。
「練習場で着替えてロッカーから出たときにマネージャーから、話があると呼び止められたんです。若干は予想していましたけど、実際に言われたときは『きたか。』と思いましたね。」
そのような経緯もあり、現在は活躍の場をアメリカへ移した村田選手。ひとくちにマイナーリーグと言っても7階層に分かれており、特にトリプルA のレベルは非常に高い。
村田選手は現在マイナーリーグのトップ、トリプルA で活躍している。
日米の野球の違いはどんなところなのだろうか。
「基本的に『投げて・打って・走る』というシンプルなのがアメリカのプレースタイル。サインプレーもそこまで完璧なことを求めていないので、ある程度のことを把握したら OK 。日本だったらこのタイミングで動いてとか、ピッチャーはこのタイミングで投げてこういう動きをしてというのがありますけど、こっちは大雑把なんですよね。あとは基本的にストライクゾーンで勝負。積極的にストライクを取っていくのが、こっちの投手に求められていることですね」
ピッチャーに求められる配球など、アメリカの野球スタイルに村田選手は見事に適応している。
そして自分の役目を理解しプレーすることで、昨年はトリプルA のリーグで最多勝に輝くなどすばらしい成績を収めた。
巷では『マイナーリーグは過酷』ということをしばしば聞く。
長時間のバス移動やファストフードがメインの食事など、実際のところどうなのだろうか聞いてみた。しかしあっさりとこのような答えが返ってきた。
「長い移動だとバスで12時間になることもありますが、慣れればこんなもんかと思いますよ。食事は下のレベルの頃は『え、これで晩飯?』みたいなのよくありました。食べ物がないときはビール飲んでお腹いっぱいにして、お腹空く前に寝るっていう感じでしたね(笑)。」
そして試合日程に関してもダブルヘッダーが組まれたりと文字通り過酷なスケジュールで動いている。
「この前はここから3時間半のところで試合をしたんですけど、延長13回までやって球場を出たのが夜中の12時くらい、それで戻ってきたのが3時半です。そこから少し寝てデイゲーム2試合やりました。その時はさすがに皆文句言ってましたけどね(笑)。」
実にタフである。シングルA から始まり昨年はメジャーの舞台も経験した村田選手だが、自分の中で変化してきた部分はどんなところだろうか。
「新しいものにどんどんチャレンジできて、結果を出せてるんじゃないかなと思いますね。日本にいたときは自分の中で譲れないものが多かったので素直に聞けないこともあったんですけど、こっちに来てから色んな経験をしています。実際にオフシーズンは4年連続でウィンターリーグ(※中南米で開かれる野球リーグ)に行って、色々学ぶことができました。やってみたいことにチャレンジできているという点が大きいです。」
そのウィンターリーグでは技術面でも次のような変化があったという。
「ベネズエラでツーシームを覚えたのは大きな収穫でしたね。ツーシームで動くボールを投げられるようになったので、ストライクゾーンに投げてもファールになったり打ち損してくれたり。それからはフォーシーム(速球)とツーシームを中心に、スライダーやフォークを加えたピッチングスタイルに変わりました。それもあって結果につながったのだと思います。」
今回我々は、幸運なことに村田選手の登板を実際に観戦することができた。空気や臨場感の違いはもちろんのこと、テンポの良さを感じた。
「出来るだけリズムよくっていうのは気をつけています。そこでテンポが崩れるとおのずとエラーも増えるし、特にマイナーだと気持ちでどうこうしようっていう選手も多いです。自分の為にもチームの為にもテンポを保つことは重要で、そこから得られる信頼ってあると思うんですよ。『こいつだからちょっと頑張ってやろう』とか。実際に去年は自分のスタイルを確立することができて、僕が投げるときにみんな『よっしゃ!』ってなるのが伝わりました。」
冒頭でも述べたが、昨年念願のメジャーでのプレーが実現した。初めてメジャーを見たときは鳥肌が立ったと言うが、そのマウンドにどんな気持ちで登ったのだろうか。
「呼ばれたときはやるしかないと思いました。半分信じれないところもありましたけど、それまで成績も残してきたのでやっとこのときが来たかという感じでしたね。エラーとかもあったけど、それはそれで野球ですよね。ホームランも打たれましたし、やっぱりメジャーだなと思いました。」
現在レッドソックスで活躍している上原浩治選手とは大学・巨人時代の先輩であり、村田選手にとっても偉大な存在だそうだ。現在も交流はあるのだろうか。
「オフシーズンに東京で練習してるときに顔出させてもらいました。あと、シーズンが始まるときに上原さんはクリーブランドから開幕だったので、タイミングよくお話させてもらいました。雲の上のような存在ですし、今でも偉大な先輩です。」
2016年はまた3A からのスタートとなったが、昇格のチャンスを狙う。
クリーブランドは現在好調な投手陣が揃っており、先発投手の座を勝ち取るのは簡単ではないという。
「そうですね、去年の成績があっても先発投手で上がれないくらい良い選手が揃っています。それは分かってましたけど、やっとスタートラインに立てた感じなので、もう一回チャレンジしたいという気持ちです。今は、ここで地道に結果を残していくだけですね。」
アメリカに来る前は全く英語に触れていなかったという村田選手だが、初めから通訳なしで監督や選手とやり合ってきた。
「来たばかりの頃は英語が全然わからなかったですね。やっぱり帰宅すると疲れて寝てしまうことが多かったので、基本的にはチームメイトとの会話が勉強でした。最初のころは先生がいたんですけど、英語で英語を教わるのは難しかったです。会話に出てくる分からない単語を小さいノートに書き込んで後で調べたりもしました。あとはチームメイトにおもしろい英語教えてくれって聞いたり。」
そんな地道な努力もあるが、コミュニケーションを取る上で気をつけていることもあると言う。
「積極的に自分で話していくっていうのが一番だと思います。こっちの監督は英語が分からなくてもそういうところを理解してくれる人が多いです。日本ではあまり主張できなかったんですけど、やっぱりこっちでは意思を示さないといけないと感じます。まぁ『いきすぎやろ!』って思うくらいの選手もいますけどね(笑)。」
村田選手のような海外で活躍するアスリートを語学学習の面からサポートする、グローバルアスリートプロジェクトについてはこう話してくれた。
「少しでも言葉がわかると、その土地に行ったときにすごく有利ですよね。スポーツをやる上でもやっぱりコミュニケーションってすごい大事なので、そういう機会があるならできるだけ早く始めるのがいいのかなと思います。」
もっと早く英語を勉強しておけば良かったと話すが、今年からまた英語のレッスンを始めたという。
プレーに限らず6年目もこうやって高みを目指して行けるのは、天と地を味わい這い上がって来た経験と「メジャー」という明確な目標があるからだろう。
これからもわれわれDMM英会話は、村田選手のような海外でチャレンジするアスリートを応援していきたい。
英語学習アプリ iKnow! のキャラクター・ふくろうくんも一緒に。