
K. Inoue
(更新)
「~するのが好き」と言いたいとき、英語でどう表現したらよいでしょうか?
「I like to do」や「I like ~ing」という文が思いつく人も多いと思います。
でも中には、「あれ、『to do』と『~ing』は違うって高校で習ったような…」と疑問に思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そこで今回は、「like to do」と「like ~ing」はホントのところ、違うのか同じなのかを解説していきます。
一見単純なようでとても奥深い内容になりますので、ぜひ最後まで読んで、これからの英語の学びに繋げていただければ嬉しいです。
「~すること」という意味で使われる「to do」と「~ing」には、一般的に次のようなニュアンスの違いがあるとされています。
「to do」には前置詞 to の「到達」というイメージから、「行為に向かっていく」というニュアンスがあり、そのことから「未来志向」的な意味を表すことが多くあります。
「海外旅行をしてみたいです」
「近いうちにお会いできるといいです」
「海外旅行をすること」も「会うこと」もまだ起こっていない未来のことですね。
言い換えれば、これらの行為はまだ行われていない「未実現の行為」ということでもあります。
一方「~ing」には、進行形の~ing と同様に「行為を行っている最中」というイメージがあり、これによって「実際に行っている行為」というニュアンスが生まれます。
そして、この「実際的な行為」という点から~ing は、「実現している行為」や「一般論」と結びつきやすい傾向があります。
「野球をすることは楽しいです」
「貯金することは大切だ」
「野球をすること」は現実におこなっているからこそ楽しいと言えますし、「貯金すること」の大切さは一般論ですね。
では、上記の違いを踏まえて以下の2つの文を比べてみましょう。
意味の違いが分かるでしょうか。
Aの文は「私は石を投げようとしたが、腕に痛みを感じたので投げられなかった」という意味で、つまり to throw「投げること」は未実現の行為ということです。
一方、Bは「私は石を投げ始めた。するといくつかの窓に当たって割ってしまった」という意味で、つまり throwing「投げること」は実現した行為ということになります。
このように、「to do」や「~ing」を適切な文脈に乗せることで、実現したかしていないかの違いを明確に表すことができます。
ただし、詳しくは後述しますが、「to do」も「~ing」も文脈によっては意味の違いなく使われることもあり、必ずしも「to do」が常に未実現とは限らないことに注意が必要です。
つまり、実際にはBの文でも「to throw」は使用可能で、未実現だから「to do」、実現だから「~ing」を使うべし、というふうに択一的に考えなければならないわけではありません。
ここでは大まかな傾向として、どちらも実現行為を表すことができるが、明らかに未実現のことには「to do」を使う、程度に考えておくとよいでしょう。また、「~ing」は実現行為と解釈して差し支えありません。
ではこれまでの内容を踏まえ、本記事のメインテーマである「like to do」と「like ~ing」について見ていきましょう。
まずは。以下の二文を比べてみてください。
意味の違いがお分かりいただけるでしょうか。
日本語訳は一見同じに見えますが、このように、やはりここまでご説明してきた「to do」と「~ing」のニュアンスの違いが表れています。
しかし、先ほども少し触れたように、文脈や動作によっては「to do」と「~ing」が同じ意味で使われることも実はよくあります。
日本の学校や塾、予備校などの先生たちの中には「to do」と「~ing」には明確な違いがあると主張する人も多いのですが、面白いことに、海外の参考書を見ると、「Oxford」などの有名なものでも「ほとんど違いはない」と説明されていることがあります。
たとえば次のような文です。
「生徒たちは話し始めました」
どちらも実際に「(生徒が)話し始めた」ことを表しています。
そして今回のテーマである「like」をはじめ、「love」、「hate」のように、好き嫌いの感情を表す種類の動詞の場合にも、両者に違いはほとんどありません。
→ABいずれも「テニスをすることが好き」を表しています。
→CDいずれも「物事を終わらせない(片付けない)ままにしておくのが嫌い」を表しています。
筆者の体感としても、とりわけアメリカ人の英語ネイティブの中には「どちらもまったく同じ」と感じている人が多いようです。
ただ、文の意味は流動的なものですから、「like to do」と「like ~ing」がいつでも同じと言いきれるわけでもありません。
次のように何らかの文脈が伴う場合には、「to do」と「~ing」で違いを生み出すこともあります。
「泳ぎたいな。今日はいい天気だから」
→「like to swim」は「泳ぎたい」という意味に近く、未来志向的なニュアンスです。
「泳ぐことが好きです。ほとんど毎日泳いでいます」
→「like swimming」は習慣としての水泳という現実の行為を表しています。
すでにご説明した未実現性と現実性の違いが表れるわけですね。
これは「hate」についても同様です。
「こんなの食べるの嫌だな。でも今はどうしようもないか」
→「これから食べるのが嫌」という未来的なニュアンスです。
「これ食べるの嫌なんだよね。食べたあとにいつも気分が悪くなるんだ」
→実際に食べた経験という現実的行為に基づいていることを表しています。
さらに、「like」に「to do」を繋げると、「好き」というよりも、「よい考えである」のように「アイディアとしてよい」という意味合いになることがあります。
これは「~ing」では表すことができない意味です。
「これらの本を全て順番通りに並べておくようにしています」
これは「順番通りに並べておくのが好き」というよりも、「その方がよいからそうしている」というニュアンスに近いです。
さきほどの I didn’t like to fight. も同様で、「ケンカが嫌い」ではなく、「ケンカはよいことではない」というアイディアを含んでいるため「ケンカはしたくなかった」という訳がピタリとハマるのです。
意味の問題だけでなく、文法構造的に「~ing」が避けられることもあります。
たとえば、直前の動詞が「~ing」形のとき、通常はさらにそのあとに「~ing」を続けることは避けられます。
「彼らは泣き出しそうだった(泣き出していた)」
これは「~ing」を二度重ねて使う形になってしまうことに抵抗があるためで、意味は問題ではありません。
結局のところ、「like to do」と「like ~ing」はどう捉えればよいのでしょうか?
両者は常に絶対に意味が違うというわけではなく、かと言って、いつも全く同じということでもありません。
文脈や背景、伝えたい意味、文法構造的な配慮によって適宜変わるものです。
曖昧な言い方になってしまい恐縮ですが、そのような広い理解を受け入れることが、言語との健全な付き合い方と言えるでしょう。
面白いのは、ネイティブの中には細かい話は無視して「like to do も like ~ing も全く同じだ」と言い切ってしまう人が少なくないことです。
特にアメリカ英語においてその傾向はあるようで、私の知人のアメリカ人英語講師も、今回の問題に限らず「〇〇と△△はどちらも同じだよ」と教えてくれることが頻繁にあります。
これは、たとえば私たちが、日本語で「東京へ行く」と「東京に行く」の「へ」と「に」の違いをふだん大した問題として感じていないのに似ているように思います。
言語学として専門的に突き詰めれば違いは存在するのでしょう。
そしてネイティブにとっては、「同じだ」と言いつつも、実は無意識にその違いを使い分けていることもあるでしょう。
しかし現実のコミュニティに生きる一般の人々にとって、今回のテーマのような些細な違いが、実質的なコミュニケーションに影響を与えることはほとんどありません。
だから、多くのネイティブが言う「同じだ」という言葉には、実際には両者の意味に違いがあっても大した問題じゃないから気にしなくていい、というおおらかな姿勢とメッセージが込められているようにも感じます。
つまり、私たちが英語を勉強したり英会話に臨んだりするときも、些細なことにはこだわらずにとにかくどんどん話して使っていくことが大事という教訓だと思うのです。
「like to do」と「like ~ing」の締めくくりとして、「両者は違う」とも「両者は同じ」とも言い切れないのはいくぶん中途半端な気がしないではありません。
またそのことも影響してか、英語講師をしていると「中学で『to do』と『~ing』は同じだと習ったのに高校では(または大人になってから)両者は違うと教わった」という戸惑いや、「(日本人の)先生は違うと言っていたのにALTの先生は同じと言っていた」のような、ある意味では新発見の喜びの声などがたくさん聞こえてきます。
高校以降で「両者は違う」と習ってしまうと、どうしてもそっちに引っ張られて「同じ」が受け入れられなくなることもよくあります。
どちらか一方に決めてくれた方が勉強しやすいというのも心情としてはあるでしょう。
こんな中途半端で矛盾すらはらんだ現実を前に、どう覚えておくべきなのか分からない、使いこなせるようになるのか心配だ、という不安感を抱く方も多くいらっしゃいます。
しかし、その中途半端さこそが答えであり、正しさである場合があることも、言語学習における一つの真実なのです。
ですから、このような状況でどうすればよいか分からない場合の解決策は、間違えてもいいからとにかく使ってみることです。
相手が理解してくれればそれはもう「正しいもの」として認めてあげる、くらいのつもりでいれば勇気も湧いてくると思います。
ネイティブすら「どちらも同じ」と言ってくれているくらいですから、その言葉もまた励みとすればよいのです。
乱暴なやり方であることは重々承知していますが、経験を重ねることでしか、この中途半端さを乗り越えることはできません。
外国語を習得するためには使って試す経験は絶対に必要ですから、この記事が一歩を踏み出すきっかけになってくれれば嬉しいです。